036松尾匡著『左翼の逆襲——社会破壊に屈しないための経済学——』

書誌情報:講談社現代新書(2597),281頁,本体価格1,000円,2020年11月20日発行

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[本書の背景]
著者は本書に先だって多くの類書を公刊している。単著にかぎれば,①『近代の復権————マルクスの近代観から見た現代資本主義とアソシエーション————』(晃洋書房,2001年)ではマルクス疎外論から資本主義の転倒した性格を摘出し,資本主義による個々人の合意形成の可能性から「獲得による普遍化」を,②『「はだかの王様」の経済学――現代人のためのマルクス再入門――』(東洋経済新報社,2008年→[1]:https://akamac.hatenablog.com/entry/20080803/1217769650,[2]:https://akamac.hatenablog.com/entry/20080805/1217951341)ではマルクス疎外論と制度分析の経済学を基礎にしたマルクス再入門を,③『商人道ノスヽメ』(藤原書店,2009年→https://akamac.hatenablog.com/entry/20090929/1254232506)では商人道を開放個人主義原理による市場の倫理を体現したとしてその現代での復権を,④『対話でわかる痛快明解経済学史』(筑摩書房,2009年→https://akamac.hatenablog.com/entry/20100718/1279461324)では市場メカニズム,経済学と反経済学,創始者と総合者の視点で経済学の歴史の再構成を,はたそうとした。
また,ここ10年の単著をみると,⑤『不況は人災です!――みんなで元気になる経済学・入門――』(筑摩書房,2010年→https://akamac.hatenablog.com/entry/20100718/1279461324)では歴代政権による金融政策の検証とその批判を,⑥『図解雑学 マルクス経済学』(ナツメ社,2010年→https://akamac.hatenablog.com/entry/20110110/1294671690)では主流派経済学の手法を取り入れた数理マルクス経済学によるマルクス経済学の再生を,⑦『新しい左翼入門――相克の運動史は超えられるか――』(講談社現代新書,2012年→https://akamac.hatenablog.com/entry/20121112/1352723673)では社会変革の上からと下からの道論の相克を超えた市民の日常活動に将来社会の展望を,⑧『ケインズの逆襲,ハイエクの慧眼――巨人たちは経済政策の混迷を解く鍵をすでに知っていた――』(PHP新書,2014年→https://akamac.hatenablog.com/entry/20150208/1423405450)では小さな政府でも民活民営でもない大きな政府による経済政策の実現を,⑨『この経済政策が民主主義を救う――安倍政権に勝てる対策――』(大月書店,2016年→https://akamac.hatenablog.com/entry/20160219/1455887621)では中央銀行による財政ファイナンスによって格差縮小や教育に振り向ける経済政策を,⑩『自由のジレンマを解く――グローバル時代に守るべき価値とは何か――』(PHP新書,2016年→https://akamac.hatenablog.com/entry/20160601/1464792890)では協同組合やNPOの活動による「獲得による普遍化」を,それぞれ展開していた。
これらの著書群をおおまかに整理すると,1)方法論としてのマルクス疎外論と基礎理論としての主流派経済学を取り入れて数理マルクス経済学を提示すると同時に市場メカニズムと民主主義に期待してきた部分(①〜④および⑥)と,2)財政・金融政策を中心としたこれまでの経済政策の検証と批判(運動論・担い手論や広く左翼論)にとどまらずそれへの代案の提示と実現にいたる道筋を明らかにしようとしてきた部分(⑤および⑦〜⑩)になろう。
著者の主張は,ケインズ主義の破綻と財政危機の進行を契機とした1970年代後半以降・80年代の新自由主義の台頭を遠景に,ソ連・東欧体制の崩壊以降に進行したグローバリゼーションの名の多国籍企業による大競争時代の規制緩和論を中心とした90年代以降の新自由主義を近景にしている。「平等主義」を大義名分とした社会主義の崩壊は,「クレムリンの脅威」(フリードマン)から資本主義を解放することからはじまり,戦後福祉国家の解体と再編を促進し,改革の主対象を財政再建から高コスト構造の是正へと変化させてきた。新自由主義が市場原理対民主主義,規制対規制緩和,低コスト対高コストの構図からそれぞれ前者の優位を説くとき,経済思想史と経済理論にもとづく見通しをもった新自由主義および政策批判・イデオロギー批判を必要としよう。著者による経済政策・政権批判と著作群による代案提示はこうした現実への強い危機意識のあらわれであり,評者もそれを共有している。

[本書の特徴]
本書の内容はこれまでの著作群との重複を含んでいるが,新しい論点のひとつが左翼の運動と思想を「レフト1.0」「レフト2.0」「レフト3.0」に整理し,「レフト3.0」に将来を託していることである。
1970年代の「レフト1.0」(穏健派:旧社会民主主義や急進派:マルクスレーニン主義)および1990年代の「レフト2.0」(穏健派:ブレア=クリントン路線,日本の旧民主党政権や急進派:エコロジー共同体主義あるいはディープ・エコロジー)に代わる「レフト3.0」(現代欧米にみられる左派ポピュリズム)を提唱し,「人は生きているだけで価値がある」を旨とする社会を構想している。
「レフト1.0」は,①国家主導型で大きな政府の志向,②生産力主義,③労働者階級主義,④社会主義を標榜する大国に寛容,を特徴とする「戦前から続いている由緒正しい左派」(129ページ)である。「レフト2.0」は,①市場原理やNPO・コミュニティを利用した小さな政府,②反生産力主義・エコロジー,③脱労働組合依存・多様性の強制,④発展途上国の自立性尊重,を特徴とした。しかし,新自由主義の猛威が吹き荒れるなか,「レフト2.0に特徴的な路線の一つひとつが裏目」(149ページ)に出て,先進国での極右の台頭を許すことになる。
この把握に立って,著者は,「2.0の積極面を総合した1.0の復活」(149ページ)・「1.0と2.0の論点の総合」(157ページ)・「レフト1.0とレフト2.0の総合によってもたらされる高次元でのレフト1.0の復活」(159ページ)を主張する。いずれも現在進行中だったアメリカ,イギリス,ドイツ,ギリシャ,スペイン,ベルギー,オランダなど「レフト3.0」運動は「レフト1.0と2.0の総合に失敗」(171ページ)する。「レフト1.0」を継承すべき階級闘争史観を体現する「レフト1.0」型のリーダーの登場に快哉を叫びつつ,多数派をめざす段階でプラットフォーム型から集権的なピラミッド型へと組織が転換してしまったことや反緊縮運動がEUの存在を前にして現実性と結びついていないことがその理由となる。
反緊縮政策論は,左翼こそ経済成長論を政策に取り入れるべきであると主張に関係している。「レフト1.0」を,かつて一世を風靡した情勢認識である全般的危機論による危機待望論,「レフト2.0」を,財政危機論によるアベノミクス破綻論とし,野党が自民党を上回る景気拡大策を主張できなかったとの思いがあるからである。反緊縮政策論が生産手段の蓄積に依存しない再生産システムを志向し,私的信用ではなくインフレ率や失業率を考慮した財政支出や減税額の決定を意味する。また,設備投資財部門を抑制するための増税や物品税,累進性強化による労働配分の適正化に繋がっていく。さらに,インフレ目標(著者は物価安定目標を使う)による私的信用構造の抑制と設備投資補助金や一律給付金による景気調整と生産の再編成は「民意に基づく公共的目的のために,民主的に選ばれた政府機関がおカネを作るシステムへの転換」(234ページ)を目指す。資本主義的経済システムの社会主義的社会システムへの変革である。
変革論の展望を根拠づけているのが疎外論である。「「生きているだけで価値がある」生身の具体的個人」(238ページ,「生きているだけで価値がある」は山本太郎・「れいわ新選組」から)の立場に立ち,社会的総労働の配分とコントロールの権利の奪還を正当化する。「レフト1.0」の契約による累進課税法人税の強化,「レフト2.0」の共同体主義コミュニタリアニズムによる幸福分配政策を経て,「レフト3.0」の「レフト1.0」への回帰による課税・再分配正当化論の提案である。
生きづらい毎日を送っている人たちの立場に立ち,地域におけるプラットフォームの構築に「レフト3.0」の未来があり,反緊縮の経済政策こそが「資本主義的経済システムを乗り越えて,社会主義的な社会システムに変革していく道」(235ページ)となる。財政均衡主義に与しないだけでなく,反緊縮の経済政策のその先を見通していた。本書は「レフト3.0」(現代欧米にみられる左派ポピュリズム)に将来構想の芽を発見し,反緊縮の経済学に資本主義の社会主義への道を重ねている。

[本書の意義と課題]
本書はもともと労働運動や協同組合運動を担う活動家のための大阪労働学校・アソシエでの講義をもとにしている。そのため反緊縮経済政策論にとどまらず,「包括的な経済認識や世界観を提案」(272ページ)している。この点で,疎外論や反緊縮経済政策理論を政権交代やその先の将来社会の構想にいかに結びつけるかという問題意識を前面に押し出しており,あまたの経済学入門書とは一線を画する。
「レフト3.0」論の主張はすでにみてきたように,疎外論と所有論の再解釈による。疎外論にあっては,「生きているだけで価値がある」生身の具体的個人が主人公であるはずなのに,制度や決まり事などの社会的なことが自己目的化し,生身の個人を手段化している,という著者の理解を強調する。所有論にあっては,所有をコントロールの権利とし,生身の個々人のもとに経済のコントロールを取り戻す民主的コントロールの主張となる。ミクロな各企業運営とマクロな経済全体での生産配分がその中味である。眼前に存在するのは国家共同体ではなく階級社会だから「収奪者を収奪せよ」へと回帰せよ,はまさしく「左翼の逆襲」の宣言である。
民族意識に「われら人民」「おまんま」(180ページ)の,組織に「相互の経験や情報を交流しあい,共通の政治課題に取り組むためのプラットフォーム」(182ページ)の,それぞれ代替案は間違っていない。著者が少子高齢化の条件を受けたトータルな対抗路線と反緊縮経済政策論を一環として含むトータルな体制変革思想の体系を提示したことは大いに評価しつつも,地域のプラットフォームや労働者・利用者が運営する事業のネットワーク経済に期待するだけでは十分ではない。
また,日本における新自由主義は,日米防衛新ガイドライン関連法からイラク参戦,集団的自衛権容認,日米新ガイドラインアメリカに追随・補完する軍事大国化と軌を一にして進行してきた。自由な経済とともに強い国家への志向が新自由主義の名のもとで進んだ日本資本主義であり,日本的新自由主義はひとり市場万能論だけでなく,社会全体をきな臭い方向へと導いている。著者の「左翼の逆襲」はこの点で空振っていないだろうか。

035橋本直樹著『『共産党宣言』普及史序説』

書誌情報:八朔社,404頁,本体価格6,500円,2016年6月25日発行

『共産党宣言』普及史序説

『共産党宣言』普及史序説

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(『経済』第256号,2017年1月号(→https://www.shinnihon-net.co.jp/magazine/keizai/detail/name/経済2017年1月号NO.256/code/03509-01-7/),新日本出版社,90-91ページに掲載。)

かつて『聖書』とならんで全世界でベストセラーと言われたことがあり,『共産党宣言』(以下『宣言』)ほど人口に膾炙したマルクス本はない(ただし,『宣言』はマルクスエンゲルスとの共著)。「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である」・「これまでの社会のすべての歴史は階級闘争の歴史である」・「万国の労働者,団結せよ」(イギリス・ハイゲート墓地のマルクスの墓碑に ‘WORKERS OF ALL LANDS / UNITE’ と「フォイエルバッハに関するテーゼ」の「哲学者たちは…」の一節がともに英語で刻まれていることでもよく知られていよう)の章句は『宣言』の一節からである。
『宣言』初版は二月革命勃発直前の1848年2月に刊行された。ただ,刊本には23ページ本,30ページ本,ヒルシュフェルト版があり,部数や書誌情報については諸説あり不明確のままであった。著者は『宣言』初版を23ページ本と確定し「一見したところでは書誌的些事」(15頁)にこだわり,そこに『宣言』とその実質上の発行母体である共産主義者同盟が当時の社会主義運動に及ぼした影響を見ようとしている(「第1部 『共産党宣言』初版研究の新段階」)。また,『宣言』のいくつかの翻訳と改版の出版史および普及の歴史から影響史を分析している(「第2部 『共産党宣言』出版史・影響史の研究から」)。第1部と第2部で各7章(全14章)という大著でありながら控えめな「序説」としているのは(以下略,つづきは雑誌で)

034角田修一著『社会哲学と経済学批判――知のクロスオーバー――』

書誌情報:文理閣,iv+440+21頁,本体価格3,800円,2015年12月10日発行

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(『経済』第249号,2016年6月号(→http://www.shinnihon-net.co.jp/magazine/keizai/detail/name/経済2016年6月号NO.249/code/03509-06-6/),新日本出版社,116-117ページに掲載。)

社会哲学とはマルクスの社会経済学(=政治経済学)の基礎となっている史的唯物論を意味し,ヘーゲルのそれと弁証法を批判的に継承し乗り越えたものである。知のクロスオーバーとは著者が本書で挑戦している初期マルクスの哲学と思想,現代社会=政治哲学におけるリベラリズムコミュニタリアニズム,意識とイデオロギーの理論,社会科学と経済学の方法,現代経済学批判,民主主義と資本主義などを指す。基礎となっているのはヘーゲルからマルクスへの社会哲学の批判的継承関係であり,マルクス経済学の基礎理論を深く究明することによって現代経済学としての可能性を確定しようという意図が込められている。
著者の前著『「資本」の方法とヘーゲル論理学』(大月書店,2005年)に対して「ヘーゲルぶり」で「神秘的主張」なる評があったという(本書第九章参照)。たしかに認識における唯物論的方法である分析的方法によって経験科学としての古典派経済学を徹底批判できた意味ではマルクス自身ヘーゲル学徒であった。それだけでなく,マルクスが「生産関係の物象化」「資本制生産の諸矛盾」「人間発達」として未完成ながらも資本概念の基本性格を理解し,実在の対象と認識の対象との区別,理論的理念と実践精神的理念との区別まで到達しえたマルクスを再発見し,上のクロスオーバーを試みている意味では「マルクスぶり」と評するのがふさわしい。
著者がほぼ二十年にわたって考究した論稿を纏めて集成した本書は,第一篇「社会哲学――自己意識の哲学から社会的意(以下略,つづきは雑誌で)


033川名雄一郎・山本圭一郎訳『J・S・ミル 功利主義論集』

書誌情報:京都大学学術出版会,434+9頁,本体価格3,800円,2010年12月5日発行

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)

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(社会思想史学会年報『社会思想史研究』第36号(→https://akamac.hatenablog.com/entry/20120910/1347287624),208-211ページに掲載。208ページのみを再掲した。縦書き用表記をエントリー用に修正している。)
功利主義現代思想において大きく取り上げられるようになった契機は,ジョン・ロールズ『正義論』である。また,現代政治を動かすアメリカの政治思想は,エドマンド・バークジョン・ロックそして,ジェレミーベンサムに辿ることができ,またとりわけアメリカ庶民派の保守思想として知られる「リバタリアンLibertarian」――社会的平等よりも個人的自由の確保と国家権力の制限を重視する人々の総称――も古典的功利主義ベンサム思想に行き着くともいわれる。ケインズ功利主義を「蛆虫」と切り捨てたことやアマルティア・センが経済学と倫理学との統合を試みたときその視点の先に功利主義をおいたことも想起できる。経済思想史上は,過去の一過的な思想としてではなく,現代にも大きな影響をもっている。
マイケル・サンデルハーバード白熱教室マイケル・サンデル著(鬼澤忍訳)『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学――』早川書房,2010年5月,マイケル・サンデル著(NHKハーバード白熱教室」制作チーム・小林正弥・杉田晶子訳)『ハーバード白熱教室講義録+東大特別講義』(上・下),早川書房,2010年10月)でにわかに功利主義が注目されるようになった。1884年の夏,4人のイギリス人船乗りが南太平洋の沖合を小さな救命ボートで漂流していた。乗っていたミニョネット号が沈没し,今持っている食料はカブの缶詰2個だけで飲み水はない。最初の3日間は,カブを分け合って食べた。4日目にウミガメを1匹捕まえた。その後の数日間はウメガメと残りのカブで飢えをしのぎ,それからの8日間は食べる物はなかった。4人のうちの雑用係のリチャード・バーカーは17歳,孤児で長期の航海は初めてだった。パーカーはほかの者の忠告にもかかわらず海水を飲み体調を崩し救命ボートの隅で横になっていた。漂流生活19日目を迎えたとき,ダドリー船長はくじ引きで誰か死ぬべき者を決めようと提案したがブルック甲板長が反(以下略,つづきは雑誌で)


032永田圭介著『厳復――富国強兵に挑んだ清末思想家――』

書誌情報:東方書店,vii+343頁,本体価格2,000円,2011年7月20日発行

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以前紹介したことが縁で(関連エントリー永田圭介著『厳復――富国強兵に挑んだ清末思想家――』」参照),東方書店『東方』(第371号,2012年1月号)に「厳復の生きた時代と富国への熱望」と題して書評を掲載する機会をいただいた。
次号が出たら pdf で公開される(pdf版へ直行→https://www.toho-shoten.co.jp/export/sites/default/review/371/toho371-01.pdf)。また,デジタル版(→http://www.fujisan.co.jp/magazine/1281690377/?link=related)を購入できる。雑誌表紙と本文1ページの画像を貼り付けておく。



031重田澄男著『再論 資本主義の発見――マルクスと宇野弘蔵――』

書誌情報:桜井書店,278頁,本体価格3,800円,2010年7月5日発行

初出:基礎経済科学研究所『経済科学通信』第124号(2010年12月25日)に掲載。なお,本エントリー掲載にあたっては,最終校正原稿をもとにし,体裁をエントリー用に修正した。

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マイケル・ムーアの最新作『キャピタリズム――マネーは躍る――』【[asin:B003CITC5G]】(原題:"CAPITALISM: A Love Story"【[asin:B0030Y11XS]】)には,タイトルに端的に「資本主義 Capitalism」とある。本書「あとがき」にもあるように,「資本主義」は「完全に日常化したポピュラーな言葉」になった。ひところの「自由主義社会主義」が,80年代末から90年代はじめにかけての「自由主義」の「勝利」以来,「資本主義」が大手を振って使われるようになった。その「資本主義」がはたして人類が選ぶベストの社会体制であるかどうかはもちろん別の話だ。本書は現状を分析するわけでも対案を示すわけでもない。著者が半世紀かけてマルクス研究を総括・集成した書き下ろしは,「資本主義」用語の確定に集約される。
本書は「第1部 マルクスの資本主義認識」(5章)および「第2部 宇野弘蔵氏の資本主義認識」(6章)の2部構成をとっている。第1部の各章は初期マルクスから『資本論』までの「資本主義」概念の詳細(「初期マルクス」,「唯物史観の確立」,「ブルジョア的生産様式」,「資本制的生産様式」,「マルクスの資本主義範疇),第2部は宇野の唯物史観と原理論の批判的検討(「宇野弘蔵氏の唯物史観理解」,「資本主義範疇の認識」,「「原理論」的資本主義」,「原理論の構築とその特質」,「純粋化傾向の「逆転」」,「現代資本主義と資本主義範疇」)にそれぞれ割かれている。各章の「梗概」は基本的内容の概略理解に有用である。著者の執筆意図は,「マルクス宇野弘蔵氏との理論的対比によって,資本主義認識の方法とその概念内容の特徴を明らかにしようとしている」(「はしがき」8ページ)ところにある。
本書は,『資本主義の発見――市民社会と初期マルクス――』(御茶の水書房,1983年;改訂版:1992年,[isbn:9784275014627]),『資本主義とは何か』(青木書店,1998年,[isbn:9784250980411]),『資本主義を見つけたのは誰か』(桜井書店,2002年,[isbn:9784921190156]),さらに『マルクスの資本主義』(桜井書店,2006年,[isbn:9784921190347])につづく「資本主義」5部作をなし,著者の「研究活動の総括」(278ページ)である。
第1作では「資本主義」の淵源を探求し,第2作では視野を現代まで広げ,第3作では国際的受容を,第4作ではマルクスによる資本主義概念発見をそれぞれ再確認した。第5作の本書は国際的受容をすべて第3作に委ね,マルクスによる資本主義概念の発見を総括し,宇野弘蔵の資本主義概念と経済学方法論の批判を再展開している。第4作で著者は「本書によって,資本主義用語にかんするわたしの研究は,出発点としての《原点》に立ち返り,円環は閉じることになった」(第4作,246ページ)と書いた。著者の研究の「原点」に戻って書き下ろした「総括」が本書となる。
評者は第3作と第4作に書評する機会があった(経済理論学会第50回大会(岐阜経済大学)第9分科会:書評分科会報告,2002年10月19日,および基礎経済科学研究所『経済科学通信』第115号,2007年12月20日発行。いずれも評者のブログに再掲している(下記関連エントリー参照))。第3作は,「資本主義」概念の社会思想史的密度を格段に濃くし,「資本主義」なる言葉が現実の歴史の歩みとは逆に「社会主義」なる言葉のあとに生まれたことや「資本主義」概念と用語についてマルクス以前と以後とでどのように異なるのかを明示した。この第3作によってマルクスや社会思想史における「資本主義」概念発見はほぼ確定しえた。さらに第4作は,資本主義の発見者マルクスによる資本主義概念を再確認し,「資本主義」概念が19世紀になってつくられたという学界の共通認識に大きく貢献したことを高く評価したのだった。
本書は,「資本主義」概念が「市民社会 bürgerliche Gesellschaft 」(以下A)→「市民的生産様式 bürgerliche Produktionsweise 」(以下B)→「資本家的生産様式 kapitalistische Produkionsweise 」(以下C)として確定される経緯をふまえて,用語転換の契機とプロセスの理解についてさらに深めた議論を展開している。資本主義範疇の表現としてAへの違和感の契機とそれの正確な表現としてのCを採用するにいたるプロセスの理解がそれである。著者は,『1861-63年草稿』と『資本論』での資本主義用語使用例を再精査し――第4作における「ブルジョア的生産/資本制生産」・「ブルジョア的生産様式/資本制生産様式」・「ブルジョア社会/資本制社会」・「資本主義」というマルクスの資本主義用語の点検・確定――,「(マルクスは)近代社会の経済的基礎ならびにその経済関係の包括的形態を示すものとしての生産や生産様式にかんするかぎりは,ほぼ完全に「資本制」的という用語でもって表現すべきであると確定した時点においても,なお,近代社会そのものの概括的表現にかんしては,生産や生産様式についての表現用語としては一体化しないで,「ブルジョア(市民)社会」という用語を必要としていた」(131ページ)と整理する。つまり,著者は,第4作までのA→B→Cという用語変遷をさらにA(B)とCとが併存した理由と最終的にCに結晶化する論理構造で補強するのである。「資本主義」概念の文献学探求の成果にくわえてそれの内容と特質があらためて明確になったことになる。
本書のいまひとつの力点は宇野弘蔵批判である。宇野の経済学体系は労働力商品化論を基礎にしている。著者の最初の著作は『マルクス経済学方法論』(有斐閣,1975年,[asin:B000J9V5CO])であり,「資本主義」4部作においても宇野経済学批判(と市民社会論批判)を含んでいた。本書では「宇野弘蔵氏の資本主義認識」として,マルクスの資本主義認識といかに異なるかを対照させることで批判の俎上に載せる。宇野理論の唯物史観と純粋資本主義論を中心に,宇野理論が「マルクス自身の理論形成史にもとづきながら,マルクスの資本主義認識の基本的方法」(217ページ)を示していないとする。なるほど宇野理論においては初期マルクス論や理論形成史への関心は強くない。それゆえ「資本主義概念とそれを示す表現用語による資本主義範疇の確定と厳密化ということの画期的意義を理解することによってはじめて,『資本論』における資本主義範疇のもつ独自的意義を理解することができる」(177ページ)とする著者の批判の意味は重い。
著者はすでに前4作において「資本主義」概念につきマルクスだけでなくマルクス以前(マルクスとは直接には没交渉)とマルクス以後(同時代人を含む,著作等を通じてマルクスと関係)についても包括的な検証を終えていた。資本主義の資本主義たるゆえんを資本主義範疇のA (B) からCへの転生という表現用語の変遷から徹底解剖したことは本書のもつ特徴である。しかし,同時に前作で著者自身「円環は閉じることになった」と表明したように,「資本主義」発見の歴史についてはあらためて「総括」したものであって,補強・補説はあれ,新しい論点はない。
評者は著者によるマルクスの「資本主義」発見のオリジナリティを高く評価している。ただ,前4作までの「資本主義」発見の躍動感は確実に希薄になった。平板になったといっていいかもしれない。著者はそのことを自覚し,紙数の約半分を宇野批判に振り向けることになったのではないかと思う。マルクスは『資本論』のサブタイトルに「経済学批判のために」を冠した。マルクスが逡巡しつつ研きあげた「資本主義」観は当時の経済学や社会思想との格闘なしにはなかったはずだ。マルクスと批判的対象とが同時に描かれとしたら,資本主義がつづくかぎり流布される「自由,平等,所有そしてベンサム」の世界を批判する座標軸を設定しえたのではなかろうか。あえて現代資本主義論を志向せずとも思想や概念のもつ現代性を確認できたのではなかろうか。もっともこれは著者のわれわれに課した宿題でもある。

030ジル・ドスタレール著(鍋島直樹・小峯敦監訳)『ケインズの闘い――哲学・政治・経済学・芸術――』

書誌情報:藤原書店,699頁,本体価格5,600円,2008年9月30日発行

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2009年2月28日午後5時20分読了!「大部で,しかも幅広い内容を扱う書物ではあるけれども,読者には,ぜひ最初から最後までゆっくりとページをめくって本書を通読していただきたい」(監訳者あとがき,626ページ)を身をもって実践したことになる。苦節5ヶ月の「ケインズの闘い」への闘いはようやく完了した。
政治哲学や道徳哲学との繋がりを重視するケインズの闘いの資料は,全集,アーカイブズ,二次文献を含めると壮観である。ケインズ非専門家をして5ヶ月もねばらせたわけだから,欧米ではなかなか認知されない経済思想史(経済学史)の分野ではひとり日本が「多元主義と寛容の地」(「日本語版への序文」,1ページ)とし,原書(英語),フランス語に続いていち早く日本語の翻訳書を慫慂した著者の日本観はみごとあたっていたというべきであろう。
本書は「経済理論の著作でもなければ経済思想史の著作でもない」(29ページ)。政治的ビジョンや哲学的見解と結びついたケインズ経済学を浮き彫りにする本書は,哲学・政治・経済学・芸術――この副題は原書にはなく,序論での著者による概要から採ったもの――各領域でのケインズの軌跡を縦横に絡ませている。「通読」せよという監訳者の勧めはあたっている。
ケインズの生涯は,二度の世界大戦,ロシア革命,大不況,ファシズムアメリカの覇権の確立と未曾有の歴史と背中合わせであった。同時代人ケインズは目の前の貧困,不平等,失業,経済恐慌から世界秩序の確立にかかわる金本位制や国際機関の設立にいたるまでなんらかの改革による可能性を提示しようとした。著者はこの問題意識からケインズその人を「伝記的・歴史的な文脈」(26ページ)に位置づけ,倫理学に始まり,美学に終わる「闘い」を入念に跡づけた。
哲学の領域では,大きく倫理(ケインズのビジョンの源泉)と知識(不確実性,確率,モラル・サイエンス)を扱い,ブルームズベリーとアポスルズとのかかわりを補章として挿入している。ここではヴィクトリア朝イデオロギーの基礎には宗教的道徳観にあると見抜いたケインズが,ムーアの善の観念をヴィクトリア朝の道徳に代わるものとみたことやフロイトとの出会いによる道徳観念の相対化に進化する姿を見る。同時に著者は,ヴィクトリア朝的道徳を理論的には否定しながらも,実践においては遵守しているケインズを描き,現代の極端な自由主義が道徳上の厳格主義,保守主義,宗教的原理主義ときわめて親和的であることを指摘することで,初期の自由主義ケインズの闘いは未了であることを確認する。ブルームズベリーとアポスルズの補章では純粋芸術と応用芸術とは一致するとしたフライ(文化経済学ではよく引き合いに出される)や宗教的な反啓蒙,性道徳への反逆で共感を見いだしたフロイトとの交遊が目を引く。知識の章では,初期から晩年までの著作などを中心に,父との関係,『一般理論』に及ぼした影響,モラル・サイエンスとしての経済学と自然科学との相違に触れる。なかでも,経済学はモラル・サイエンスであり,自然科学で用いられる方法を適用することができないことや一般均衡の観点から概念化することに反対したことを特徴的に描く。著者は,ケインズ経済学が「社会物理学」・「物理学モデル」(「日本語版への序文」,2,3ページ)のそれとはまったく異なり,文明の進歩に資するものであるとし,ケインズ再評価を試みる。ケインズ経済学の底流には若き時代からの哲学的ビジョンが存在することを確認している。
政治の領域では,ケインズの政治的ビジョンと戦争(ボーア戦争第一次世界大戦)時の対応を扱い,当時のイギリス政治史を補章としている。バークに関する初期著作から,ケインズ政治思想の中心的見解であるマルクス主義共産主義にたいするケインズの思想源泉を抽出する。同時に,民衆の能力についての懐疑や知的エリートへの期待をともなう,ケインズの立場――反動と革命のあいだ,つまりニュー・リベラリズム,ソーシャル・リベラリズム,リベラル・ソーシャリズムと表現される――を明らかにする。ケインズユートピアマルクスのそれと似ているとして,『ドイツ・イデオロギー』の一節を引き,両者のちがいが「変革の手段」だとする著者の意見は,マルクスを毛嫌いしたケインズの再解釈としておもしろい。戦争時の対応は,良心的兵役拒否と『平和の経済的帰結』にいたる軌跡が中心である。良心的兵役拒否と戦闘に加わる決意とのあいだには矛盾がなかったこと,耐乏生活を弱い立場にある人々に押しつけてはならないことを内容とするケインズ戦争と平和が史実とともに語られている。
ケインズの主領域である経済学では,『貨幣改革論』(1923年),『貨幣論』(1930年),『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)という3つの書物を繙き,経済的原動力にして社会的病理である貨幣,ケインズ前後の失業分析とケインズ理論,国際通貨体制を扱う。貨幣についてはフロイトからの影響として,肛門愛と保蔵性向および貨幣と排泄物との同一視があるとし,『一般理論』における貨幣不浄視に繋げている。あわせて,貨幣数量説への懐疑,貨幣需要のうち金融動機を付加した理由,流動性選好需要の解説がある。労働については失業理論の系譜とケインズ失業論の特徴が明快に述べられている。とくに失業理論の系譜についてはケインズ理論の登場を必要とした「社会が直面しつづけている問題」(438ページ)だけでなく,理論史上の位置を知る上でもきわめて有益である。マルクスの資本の一般的定式に賛意を表明していたこと(388ページ),シスモンディをマルクスケインズの先駆者と位置づけること(409ページ以降),さらにはマルクス産業予備軍との関連を問うていること(410ページ以降)など著者の視野は広い。国際通貨体制では,ケインズがその生涯をとおして国際経済の諸問題,とりわけ貨幣的・金融的な性格をもつ問題に熱意を示していたことを確認することからはじめ,完全雇用と成長を促進し戦争のない世界をつくるための国際金融秩序の設計が,周知のブレトン・ウッズにいたる確執とともに微細に描かれている。ケインズのように選挙で選ばれたのではない専門家たちが縦横に活躍した舞台裏(「テクノクラートの権力」499ページ)の物語は政治の世界との緊張関係をともなうものでもあった。
貨幣愛を論いながら,ケインズは貨幣蓄積に大きな精力を注いだ。実業家たちを「芸術家や科学者になれる見込みのなかった」(507ページ)人物とみなしながら,ケインズはとてつもなく貨幣への執着をみせた。「美への接近」(507ページ)のゆえである。ケインズは芸術の理論家であり,消費者であり,後援者でもあった。伝記類は別として,ケインズと芸術(美学)については論じられることがすくないことを考えれば,本書の最終章に芸術を論じる章をおき,ケインズの学生時代からの美学理論を詳述する構成は本書の魅力のひとつといえるだろう。美の観照能力や審美眼教育という「ヴィクトリア朝的なエリート主義」(514ページ)を残すとはいえ,経済理論家としての使命以上に芸術および芸術家の後援者としての使命をみたケインズの生き様が活写されている。いまなお残るケンブリッジの芸術劇場はケインズの遺産というべきであり,芸術評議会の創設――著者は触れていないが,at arm's length原則で知られる芸術支援の一類型――は,ブレトン・ウッズ協定よりも心血を注いだケインズの生涯をあますところなく伝えている。ニュートン文書のコレクションに関連して,「彼(ケインズ:引用者注)の最後の論文の一つはニュートンについてのものだった」(530ページ)と簡単である。近代科学者ニュートンが実は錬金術に最後まで興味を失っていなかったというケインズの発見(ニュートン像への問題提起)についてはあえて省略したのだろうか。
ジョン・ロビンソンが残した,ある会合でのケインズの言葉「そこでは私は,ただ一人の非ケインジアンであった」,あるいはフリードマンが記者に語ったという「いまや,われわれは皆ケインジアンである」とは,ケインズ主義の多様な受容を示している。著者が本書をとおして訴えたかったことは,ケインズの社会についての総体的な理解であり,経済・政治・倫理・知識・芸術と複雑に結びついていたことの再構成である。もし社会に病弊があるとしたら,その治療法は状況や時期や場所によって異なってくる。この意味で「『ケインズ政策』なるものは存在しない」(567ページ)のではなく,存在してはならないのだ。

(追記)監訳者のおひとり小峯さんによると,この度重版になったそうだ。「厚高」(厚い,高い)もなんのその,快挙といっていいかもしれない。(2009年3月14日記)