344最初の母船式蟹工船

海事都市を標榜し,来年2度目の海事展を開く今治市の担当者の話を聞く機会があった。人材育成,海事産業振興,海洋観光の拠点化を内容とする海事都市構想について,今治市が制作した DVD の鑑賞と意見交換が主であった。
あわせて,3種類のリーフレット国土交通省四国運輸局今治の海で働く人たち」(2009年3月),今治市今治 日本最大の海事都市」(2010年2月),同「海のまち・今治 日本一の海事都市・いまばりを探る」(2009年11月改訂版)をいただいた。
3番目の資料は76ページの立派なリーフレットで,海事都市・今治の本格的な紹介である。このなかで,今治波止浜(はしはま)出身の八木亀三郎が蟹工船をつくって創業したとあった。

明治26年(1893)に波止浜出身の八木亀三郎氏は,波止浜塩の販売のためにロシアの沿海州へおもむきました。現地ではサケの捕り方や売り方が幼稚で安価な取引であることに目をつけ,サケ漁を研究して亀三郎氏は大成功をおさめています。
次に,亀三郎氏は「蟹」に目をつけ,樺太丸という3000トン級の「蟹工船」をつくって蟹創業に乗り出しました。「蟹工船」とは,冷凍設備が未熟だった当時,蟹の傷みを極力押さえ,市場価値を高めるため,缶詰めを製造する工場設備を船内に持つ船でした。
亀三郎氏の持っていた北洋漁業の大型船は,故郷の発展を望む彼の考えにより,波止浜波止浜船渠株式会社で修理されました。また,こうした交流により船大工や蟹工船の船員としてロシアに渡る波止浜の人もいたようです。
蟹創業は盛況を呈し,多くの利益をあげることができましたが,彼の成功をみた人たちが参入して乱獲となったので,政府は企業共同をすすめ,昭和2年(1927)には2社に統合されています。
その後,彼は愛媛第一の多額納税者になり,今治商業銀行(伊予銀行の前身のひとつ:引用者注)の頭取や波止浜町長になりました。莫大な財の一部は,立派な家の建設にあてられ,その建物は今もなお波止浜に残り,当時の姿をしのばせています。(41ページ)

小林多喜二蟹工船』が「ブーム」になった時,地元では八木亀三郎の「業績」が「再評価」された。「再びのワーキングプア,何と見る 愛媛・今治「蟹御殿」に脚光」(毎日,2008年7月27日)がその例である(→http://ameblo.jp/warm-heart/entry-10126925591.html)。
ところで,樺太丸は「これをモデルに大型カニ工船が出現するなど,母船式漁業発展の先駆けとなった」船で,北海道開拓記念館に模型が展示されている(→http://www.hmh.pref.hokkaido.jp/jouten/theme6/karafutomaru.htm)。
倉田稔「蟹工船および漁夫雑夫虐待事件」(小樽商科大学商学討究』第53巻第1号,2002年7月)は小林多喜二蟹工船』の歴史的背景を追ったものだが,一瞥するかぎり樺太丸は出てきていない(小樽商科大学学術成果コレクション→http://hdl.handle.net/10252/473)。倉田稿によると「蟹工船による蟹缶詰の初めは,大正5年,水産講習所練習船雲鷹丸に簡単な缶詰機械をすえつけ,オホーツク海上で船内で製造試験を行なったことである。その結果がよかったので,カムチャッカ西海岸で富山県水産講習所練習船・呉羽丸がより大規模に製造した」(8ページ)とある。また蟹工船の事業化は1920(大正9)年和島貞二による。
樺太丸は1924(大正13)年(うえの北海道開拓記念館の樺太丸模型解説による)創業らしいので,蟹工船の最初ではないが,母船式蟹工船の最初期のもののようだ。
海事都市構想のお勉強が蟹工船に収斂してしまった。

  • 1年前のエントリー
  • 2年前のエントリ
    • おさぼり
  • 3年前のエントリ
    • おさぼり