031「願い事をする」 make a wish

日経新聞に「寄りそうケア 夢をかなえる(メイク・ア・ウィッシュ㊤㊦)」の記事があった(編集委員木村彰の署名入り,2009年8月26日および27日)。
3歳から18歳未満の難病の子の夢をかなえ,病気に立ち向かう勇気を持ってもらう国際的ボランティア活動組織が「メイク・ア・ウィッシュ」(make a wish) で,1980年にアメリカで始まり,現在では世界33カ国・地域に広がり,約21万人の夢をかなえたという。今回の記事では,「きれいな洋服を着て写真を撮りたい」夢を実現した長崎県大村市の田中那実さん(10歳),「CHAGE and ASKAのコンサートに行きたい」夢を実現した千葉県松戸市の山中早苗さん(30歳,夢実現時は92年)の例が紹介してあった。難病の子が勇気と前向きの力を取り戻し,協力者も喜び分かち合う姿を描いていた。
この記事を読んで,大学を卒業することが夢だったある教え子がいたことを書きたくなった。ある難病で12年前在学中に亡くなった藤田寛之君だ。

藤田君との出会いは,私にとってかけがえのないものでした。藤田君の死に直面して『愛媛大学学報』と『学生部だより』に以下のような文を寄稿しました。
藤田君は,昨年(1997年)7月26日の夕刻,天に召されました。享年21歳。日に日に衰弱する筋肉を目一杯使い,一番前の席で一生懸命ノートしていた姿が目に浮かびます。入学以来3年半のあいだ全科目一度も欠席することがありませんでした。
死の2日前の試験では,体を前後左右に揺らしながら文字どおり全身全霊をかたむけ答案を書き上げました。この答案が絶筆となりました。藤田君は,擁護学校から初めて国立大学に進学しました。その彼の念願は,後に続く後輩のためになんとしても卒業することでした。
卒業者名簿掲示のおり,藤田君のお母さんはつぎのようなメッセージを寄せてくださいました。

寛之の在学中は名前も知らない多くの人から親切にされたり,優しい言葉をかけていただいて,そのお礼が言いたくてペンをとりました。(改行)雨の日,傘をさしかけていただいたり,車椅子を車に乗せるのを手伝ってもらったり,時には腰を痛めていた私に代わって寛之をかかえてくださるなど,数々のご親切まことにありがとうございました。寛之に代わって厚くお礼申し上げます。(改行)寛之の病気を宣告された3歳半のときから,私ども家族は,いつかは別れのときがくることを覚悟させられておりました。(改行)小学校4年生のときから車椅子の生活を余儀なくされ,野球選手になりたかった夢も破れ,不自由な生活を強いられました。しかし,その辛さを乗り越え,「僕は不自由だけど,不幸ではない」と言い,「障害は僕の個性の一つだ」と言えるほどに成長することができました。(改行)21歳と8ヶ月の短い生涯でしたが,いつも全力投球で完全燃焼したその生き様は,わが子ながら見事であったと脱帽して拍手を送りたい気持ちです。ただ,大学を卒業することは,自分だけのためではなく,養護学校の後輩たちの励みになればよいと頑張っていただけに,卒業を目前にしての死は,心残りであったろうと思います。(改行)それでも人生の最期に,思いがけず大学生活を与えられ,人並みに青春を楽しみ,良い先生や友だちとめぐり会えたことを,幸せだったと感謝しています。(改行)ほんとうにありがとうございました。言葉ではいいつくせない感謝の気持ちをこめて,心からお礼を申し上げます。(1997年3月13日)

健常者と障害者とを区別する社会の常識に,そうではなく障害者と障害者予備軍で構成されているんだと諭してくれた藤田君。藤田君の学ぶ姿勢,生き様は生きた大学教育そのものでした。学生だけではなく,多くの教員が藤田君に教えられたといっても過言ではありません。私のできることは,大学生活に命を燃焼させた藤田君という学生がいたことを語り継ぐことです。
そして藤田君。安心してください。君の後輩が入学しました。
こんな文章を書いたあと,藤田君との一方的な約束を自分に課してきました。1997年の卒業式前と当日の模様を報じた南海放送テレビの特集を後輩たちに見せることです。その年からはじまった約束を今年まで実行してきました。幸い夜間主コースの一回生対象の講義を担当することになり,毎年の恒例としてきました。「愛媛大学で学ぶことになってうれしい」,「こんな先輩がいて,誇りに思う」,「感動と勇気をもらった」など多くの感想をもらいます。藤田君はいまなお愛媛大学に生きていると言っても過言ではないと自負しています。
藤田君とのつきあいは,今でも続いているし,これからも続けていきたいと思っています。藤田君,これからも後輩たちに語りかけてください。(藤田寛之遺稿集をつくる会『明日に向かって――難病と闘い燃焼させた青春――』2002年7月26日発行,より)

藤田君は小学校4年生の時,市内のH小学校から県立第一養護学校に強制的に転校させられた。主治医や県の教育関係者は受け入れ体制さえよければ普通学校のほうがいいと言っていたにもかかわらず,H小学校(の校長か教頭)は「この子のために,同じクラスの40余名が犠牲になります。それに,なんといっても担任の先生には迷惑をかけます」と,本人を目の前にして,告げたのだった。それでも藤田君は3年生の終業式の日に,全校生徒の前で大きな声で,胸をはって堂々と挨拶したという。
メイク・ア・ウィッシュの活動に敬意を表しつつも,かなわない夢もある。でも伝えられる夢はある。そんな気持ちで記事を読んだ。