529内田樹著『日本辺境論』

書誌情報:新潮新書(336),255頁,本体価格740円,2009年11月20日発行

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2009/11/16
  • メディア: 新書

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思わぬところで「辺境論」を目にした。吉田誠一「フットボールの熱源」(日経新聞2010年9月1日付)で,「日本代表の新監督探しが難航したのは,日本が世界の辺境に位置することと関係しているようだ。日本に腰を据えると,世界のトップモードから後れを取り,マーケットからこぼれ落ちるリスクにさらられるのだから,指導者はちゅうちょする」というのだ。辺境を脱するにはどうすればいいか。コラムはこう続く。Jリーグのクラブが大物の監督,選手を呼ぶ,日本選手が欧州のリーグで活躍するだけでなく,日本代表が積極的に欧州で試合をこなし,いい試合をする。「日本サッカーの情報が世界に向けて盛んに出ていく状態をつくり,インパクトを与え続けることができれば,本場との”距離”は自然に縮まる」。こうしないと「永遠に辺境から抜け出せない」。
新監督にイタリア人アルベルト・ザッケローニが決まるまで,このコラムにかぎらず同じ趣旨の日本サッカー辺境論は,共通して聞こえてきたように思う。中心=欧州,辺境=日本,という地理的構図にもとづく辺境論は,中心=欧米と置き換えればスポーツだけでなく文化,学術,科学などありとあらゆる分野で叫ばれ,常識と化している。
あるいは孤高性や漂泊性の源に「自信なき辺境人」を指摘したある指揮者評も目にした。生誕80年を迎えたカルロス・クライバーにたいし,巨匠だった父親エーリヒの影におびえ,漂白する内面を映した特殊な演奏とし,スペイン語でカルロスと名乗り続けた辺境人の意識を指摘していた(日経新聞2010年9月11日付文化欄「カルロス・クライバー生誕80年」)。さきの辺境脱出論とはちがい,中心=父親,辺境=自分という構図のもとカルロス・クライバーの指揮を脱辺境にいたらないゆえの特殊な演奏と特徴づける。
いずれにしても日本辺境論だけでなく辺境一般論は多くある。アダム・スミスにしてもスコットランドイングランドにたいする辺境性でスミス理論の特徴を指摘するごとくである。
著者は,梅棹忠夫(『文明の生態史観』)や丸山眞男(『日本文化のかくれた形』,『現代政治の思想と行動』,『日本の思想』),川島武宣(『日本人の法意識』)らの日本(人)論を受けて,「きょろきょろ」(丸山)して「同一の主題に繰り返し回帰する」(23ページ)という「辺境民のメンタリティ」(67ページ)を主張する。著者の言う辺境論とは「きょろきょろ」論ともいえるだろう。
日本(人)からオリジナルで,国際的に普遍性をもった理念やプログラムが出てこないのは,古代から染みついたこの辺境性にある,という。「世界標準に準拠してふるまうことはできるが,世界標準を新たに設定することはできない」という「辺境の限界」(97ページ)が日本(人)を規定しており,ここに腹を据えてとことん辺境でいこうというわけだ。とすれば「知識人のマジョリティは「日本の悪口」しか言わないようになる」(同上)伝でいえば,著者の議論も辺境論から自由ではないということになろう。
自国や自分の認識はこの染みつき辺境性に規定されているとはいえるにしても,われわれがこの辺境性を身に付けて生まれるわけではない。本書のような日本辺境論や極東日本論など多様な辺境論から影響を受けた後天的辺境論を我が身にしてしまっているのも事実だろう。辺境居直り論のまえに,評者としてはこのあたりの区分けをしてみたいと思う。