018内田樹著『下流志向――学ばない子どもたち 働かない若者たち――』

書誌情報:講談社,231頁,本体価格1,400円,2007年1月30日

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

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キャンパス内の禁煙スペースで喫煙している学生に注意をしたら,タバコをもみ消し,「(今は)吸っていない」と言う(本書でも紹介されているし,評者も最近よく経験している)。初めて研究室に来た学生が本棚の本を見て,「全部読んだんですか」と必ず聞くのも,受験を中心として「有用な」読書経験しかなくみずからを消費主体としてきた彼らにとって素直な驚きなのだろう(評者がここ数年実感していることだ。学生だけでなく,最近は社会人からも聞くことが多くなった)。
学びからの逃走(第1章)と労働からの逃走(第3章)は,主体である子どもたちや若者たちの消費者主権としての振る舞いであり,経済合理性にもとづく不快貨幣の交換だ。著者が「心理的背景,イデオロギー的な構造」といい,みずからの「創見」ではないとしているが,彼らの深層分析としてはあたっていると思う。また,この社会をリスク社会であると認める人々だけがリスクを引き受け,リスク社会ではないかのようにふるまう人々はリスクヘッジすることができるとするリスク社会論(第2章)は,言外にセーフティ・ネットの構築を含意している。
それでは,労働主体の消費主体への転化は,どのようにして実現したのだろうか。本書では,消費主体への転化が前提になっているので,残念ながらこの点は読み取ることができなかった。空間モデルとしての等価交換論――マルクスの言葉でいえば,使用価値の実現と価値の実現との時間的乖離――からは最近の消費主体の登場は説明できない。なぜなら,「ペイ・オン・デリバリーが等価交換の原則」(135ページ)は資本主義でさらに開花した商品生産の特徴だからだ。伝統的経済学は消費者主権論を前提にした理論展開だといわれることがある。消費者のオファーによって供給者が必要な商品を生産するという理論モデルだ。このモデルなら最初から説明は可能だ。
ここまで書いて気がついたことがある。社会に蔓延する「何の役に立つのか?」という問いを,著者は功利,功利的と呼んでいる。これこそ,19世紀のマルクスが問題にしていたことである。労働する主体の実現はいかにして可能か。ふたたび問題はマルクスの問いに戻ったようだ。
第4章の「質疑応答」は本書に必要なことだろうか。70ページ(本書のほぼ3分の1)もの追加は,本作りの安易さを憶測してしまった。5時間の講演・質疑応答の再現が本書の目的ではないだろう。妄言多謝。