031重田澄男著『再論 資本主義の発見――マルクスと宇野弘蔵――』

書誌情報:桜井書店,278頁,本体価格3,800円,2010年7月5日発行

初出:基礎経済科学研究所『経済科学通信』第124号(2010年12月25日)に掲載。なお,本エントリー掲載にあたっては,最終校正原稿をもとにし,体裁をエントリー用に修正した。

  • -

マイケル・ムーアの最新作『キャピタリズム――マネーは躍る――』【[asin:B003CITC5G]】(原題:"CAPITALISM: A Love Story"【[asin:B0030Y11XS]】)には,タイトルに端的に「資本主義 Capitalism」とある。本書「あとがき」にもあるように,「資本主義」は「完全に日常化したポピュラーな言葉」になった。ひところの「自由主義社会主義」が,80年代末から90年代はじめにかけての「自由主義」の「勝利」以来,「資本主義」が大手を振って使われるようになった。その「資本主義」がはたして人類が選ぶベストの社会体制であるかどうかはもちろん別の話だ。本書は現状を分析するわけでも対案を示すわけでもない。著者が半世紀かけてマルクス研究を総括・集成した書き下ろしは,「資本主義」用語の確定に集約される。
本書は「第1部 マルクスの資本主義認識」(5章)および「第2部 宇野弘蔵氏の資本主義認識」(6章)の2部構成をとっている。第1部の各章は初期マルクスから『資本論』までの「資本主義」概念の詳細(「初期マルクス」,「唯物史観の確立」,「ブルジョア的生産様式」,「資本制的生産様式」,「マルクスの資本主義範疇),第2部は宇野の唯物史観と原理論の批判的検討(「宇野弘蔵氏の唯物史観理解」,「資本主義範疇の認識」,「「原理論」的資本主義」,「原理論の構築とその特質」,「純粋化傾向の「逆転」」,「現代資本主義と資本主義範疇」)にそれぞれ割かれている。各章の「梗概」は基本的内容の概略理解に有用である。著者の執筆意図は,「マルクス宇野弘蔵氏との理論的対比によって,資本主義認識の方法とその概念内容の特徴を明らかにしようとしている」(「はしがき」8ページ)ところにある。
本書は,『資本主義の発見――市民社会と初期マルクス――』(御茶の水書房,1983年;改訂版:1992年,[isbn:9784275014627]),『資本主義とは何か』(青木書店,1998年,[isbn:9784250980411]),『資本主義を見つけたのは誰か』(桜井書店,2002年,[isbn:9784921190156]),さらに『マルクスの資本主義』(桜井書店,2006年,[isbn:9784921190347])につづく「資本主義」5部作をなし,著者の「研究活動の総括」(278ページ)である。
第1作では「資本主義」の淵源を探求し,第2作では視野を現代まで広げ,第3作では国際的受容を,第4作ではマルクスによる資本主義概念発見をそれぞれ再確認した。第5作の本書は国際的受容をすべて第3作に委ね,マルクスによる資本主義概念の発見を総括し,宇野弘蔵の資本主義概念と経済学方法論の批判を再展開している。第4作で著者は「本書によって,資本主義用語にかんするわたしの研究は,出発点としての《原点》に立ち返り,円環は閉じることになった」(第4作,246ページ)と書いた。著者の研究の「原点」に戻って書き下ろした「総括」が本書となる。
評者は第3作と第4作に書評する機会があった(経済理論学会第50回大会(岐阜経済大学)第9分科会:書評分科会報告,2002年10月19日,および基礎経済科学研究所『経済科学通信』第115号,2007年12月20日発行。いずれも評者のブログに再掲している(下記関連エントリー参照))。第3作は,「資本主義」概念の社会思想史的密度を格段に濃くし,「資本主義」なる言葉が現実の歴史の歩みとは逆に「社会主義」なる言葉のあとに生まれたことや「資本主義」概念と用語についてマルクス以前と以後とでどのように異なるのかを明示した。この第3作によってマルクスや社会思想史における「資本主義」概念発見はほぼ確定しえた。さらに第4作は,資本主義の発見者マルクスによる資本主義概念を再確認し,「資本主義」概念が19世紀になってつくられたという学界の共通認識に大きく貢献したことを高く評価したのだった。
本書は,「資本主義」概念が「市民社会 bürgerliche Gesellschaft 」(以下A)→「市民的生産様式 bürgerliche Produktionsweise 」(以下B)→「資本家的生産様式 kapitalistische Produkionsweise 」(以下C)として確定される経緯をふまえて,用語転換の契機とプロセスの理解についてさらに深めた議論を展開している。資本主義範疇の表現としてAへの違和感の契機とそれの正確な表現としてのCを採用するにいたるプロセスの理解がそれである。著者は,『1861-63年草稿』と『資本論』での資本主義用語使用例を再精査し――第4作における「ブルジョア的生産/資本制生産」・「ブルジョア的生産様式/資本制生産様式」・「ブルジョア社会/資本制社会」・「資本主義」というマルクスの資本主義用語の点検・確定――,「(マルクスは)近代社会の経済的基礎ならびにその経済関係の包括的形態を示すものとしての生産や生産様式にかんするかぎりは,ほぼ完全に「資本制」的という用語でもって表現すべきであると確定した時点においても,なお,近代社会そのものの概括的表現にかんしては,生産や生産様式についての表現用語としては一体化しないで,「ブルジョア(市民)社会」という用語を必要としていた」(131ページ)と整理する。つまり,著者は,第4作までのA→B→Cという用語変遷をさらにA(B)とCとが併存した理由と最終的にCに結晶化する論理構造で補強するのである。「資本主義」概念の文献学探求の成果にくわえてそれの内容と特質があらためて明確になったことになる。
本書のいまひとつの力点は宇野弘蔵批判である。宇野の経済学体系は労働力商品化論を基礎にしている。著者の最初の著作は『マルクス経済学方法論』(有斐閣,1975年,[asin:B000J9V5CO])であり,「資本主義」4部作においても宇野経済学批判(と市民社会論批判)を含んでいた。本書では「宇野弘蔵氏の資本主義認識」として,マルクスの資本主義認識といかに異なるかを対照させることで批判の俎上に載せる。宇野理論の唯物史観と純粋資本主義論を中心に,宇野理論が「マルクス自身の理論形成史にもとづきながら,マルクスの資本主義認識の基本的方法」(217ページ)を示していないとする。なるほど宇野理論においては初期マルクス論や理論形成史への関心は強くない。それゆえ「資本主義概念とそれを示す表現用語による資本主義範疇の確定と厳密化ということの画期的意義を理解することによってはじめて,『資本論』における資本主義範疇のもつ独自的意義を理解することができる」(177ページ)とする著者の批判の意味は重い。
著者はすでに前4作において「資本主義」概念につきマルクスだけでなくマルクス以前(マルクスとは直接には没交渉)とマルクス以後(同時代人を含む,著作等を通じてマルクスと関係)についても包括的な検証を終えていた。資本主義の資本主義たるゆえんを資本主義範疇のA (B) からCへの転生という表現用語の変遷から徹底解剖したことは本書のもつ特徴である。しかし,同時に前作で著者自身「円環は閉じることになった」と表明したように,「資本主義」発見の歴史についてはあらためて「総括」したものであって,補強・補説はあれ,新しい論点はない。
評者は著者によるマルクスの「資本主義」発見のオリジナリティを高く評価している。ただ,前4作までの「資本主義」発見の躍動感は確実に希薄になった。平板になったといっていいかもしれない。著者はそのことを自覚し,紙数の約半分を宇野批判に振り向けることになったのではないかと思う。マルクスは『資本論』のサブタイトルに「経済学批判のために」を冠した。マルクスが逡巡しつつ研きあげた「資本主義」観は当時の経済学や社会思想との格闘なしにはなかったはずだ。マルクスと批判的対象とが同時に描かれとしたら,資本主義がつづくかぎり流布される「自由,平等,所有そしてベンサム」の世界を批判する座標軸を設定しえたのではなかろうか。あえて現代資本主義論を志向せずとも思想や概念のもつ現代性を確認できたのではなかろうか。もっともこれは著者のわれわれに課した宿題でもある。