010重田澄男著『資本主義を見つけたのは誰か』

akamac2007-03-08

書誌情報:桜井書店,308頁,本体価格3,500円,2002年4月5日,asin:4921190151
初出:経済理論学会第50 回大会(岐阜経済大学)第9 分科会:書評分科会報告,2002年10月19日

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はじめに

「ヨーロッパ諸国における膨大な文献(著書,論文,新聞・雑誌記事,パンフレット等々)において,誰が『資本主義』という言葉を初めて使ったかについて確定することはきわめて困難であるにしても,書物として公刊された叙述にかぎってみても,『資本主義』という用語が初めて使用された文献と著者についての見解はいまだ確定していない,といえるようである」(「序章」21ページ。ボールド体:赤間

「(前略)『資本主義』を最初に見つけたのはマルクスである(後略)」・「(前略)用語としての『資本主義』という言葉そのものの発見者は,マルクスではない。『資本主義』という言葉そのものの最初の発見者は,現在までの点検のかぎりでは,ピエール・ルルということになる」(「第7章」153〜4ページ。ボールド体:赤間

「『社会主義』(socialisme)という用語もまた,ルルーが創始者」(「第1章」33ページ)

マルクス生存中に公刊した著書・論文において「資本主義 Kapitalismus 」という言葉が存在しないことはよく知られている。未定稿の原稿とノート類すべてをとおしても3カ所にすぎない。これにしても原稿解読によるものであって,そのうちふたつはマルクスのオリジナル原稿においては,それぞれ “d.Capit.” “d.Cpitlsms” とでも読めるものでしかなく,また,現行『資本論』第2巻中(周知のようにもとは草稿)で唯一「資本主義 Kapitalismus 」が使われているだけである。書簡類ではシェフレ (Albert Eberhard Friedrich Schäffle, 1831-1903) の書名『資本主義と社会主義』を指す箇所で使用しているだけである。
本書は,『資本主義の発見――市民社会と初期マルクス――』(御茶の水書房,1983年;改訂版:1992年,asin:4275013778),『資本主義とは何か』(青木書店,1998年,ISBN:4250980413)につづく「資本主義」三部作をなす。最初の著作では「資本主義」の淵源を探求し,「市民社会 bürgerliche Gesellschaft 」→「市民的生産様式 bürgerliche Produktionsweise 」→「資本家的生産様式 kapitalistische Produkionsweise 」として確定される経緯を解明した。同時に,著者の経済学方法論と交錯する市民社会論および宇野理論の批判を企図したものでもあった。第二作では,混迷する資本主義論の原因のひとつは,「資本主義」用語=眼前の資本主義理解に関係することを示し,視野を現代まで広げた。第三作である本書は,「“資本主義の発見”のマルクス版にたいするインターナショナル版」(「あとがき」)であり,前二作でも確認されてきたマルクスによる「資本主義」概念の発見を中間に(第2部第6章・第7 章),マルクス以前(マルクスとは直接には没交渉)とマルクス以後(同時代人を含む,著作等を通じてマルクスと関係)とをそれぞれ第1部第1 章〜第5 章,第3部第8章〜第10章に配したものである。

本書の内容
第1部「「資本主義」語のはじまり」においては,フランスの初期社会主義者ピエール・ルルー (Pierre Leroux, 1797-1871),ルイ・ブラン (Jean Joseph Charles Louis Blanc, 1811-82) ,イギリスの小説家サッカレー (William Makepeace Thackeray, 1811-63)およびフランスの社会運動実戦家ブランキ Louis Auguste Blanqui, 1805-81)をとりあげている。彼らがマルクスにさきだって「資本主義」という言葉を使っていることを考証すると同時に,「資本主義」が「資本家」(ルルー),「資本の排他的占有」(ルイ・ブラン),ブルジョア的気分」サッカレー)および「資本」「資本家」(ブランキ)を意味しているにすぎないとした。ここに,マルクスが「資本主義」に含意した社会体制や経済システムとは異なることを示すことによってマルクス登場の意義を確定できることになる。(「資本主義」を最初に見つけたのはマルクスであり,用語としての「資本主義」という言葉そのものの最初の発見者はマルクスではなくルルーである,とするのは,まさしく著者による「発見」である。)
第3部「「資本主義」用語の継承と変容」においては,前記シェフレ,ホブソン (John Atkinson Hobson, 1858-1940)およびゾンバルト (Werner Sombart, 1863-1941)をとりあげ,マルクスから「資本主義」概念を「継承」しながら,「社会的な結合形態」(シェフレ),「機械制産業」(ホブソン)および「資本家的精神」をもった「資本家的企業」ゾンバルト)として「変容」していることを指摘している。

本書の評価
このように,本書は渉猟範囲をさらに広げることによって「資本主義」概念の社会思想史的密度を格段に濃くした。「資本主義」なる言葉が現実の歴史の歩みとは逆に「社会主義」なる言葉のあとに生まれたこと(第1章),「資本主義」概念と用語についてマルクス以前と以後とでどのように異なるのか(本書全編)が明確に示されたことは,本書のなによりの貢献である。著者の「資本主義」第一作にたいし,<マルクスにおける資本主義発見」の著者による再発見の書>(服部文男)という評がなされたことがある。本書によって著者は「再発見」を補強し,「マルクスにおける資本主義発見」をほぼ確定しえたといっていい。
問題は,「資本主義」の発見・再発見によって見逃された問題はなかったのかであるだろう。「資本主義」概念を深めるとは,マルクス的理解の「再発見」にとどまることではなく,削ぎ落とされたかもしれない論点の再発掘をともなうものでしかありえないのではないだろうか。この視点から本書で叙述された内容についていくつかの論点を提示する。

いくつかの論点
第一に,「社会主義」用語について。「第1 章」でルルーを検討したさい,「社会主義」が「資本主義」に先行したこと,社会主義思想の普及とともに「資本主義」が確定したことを述べている(33〜36 ページ)。しかも,もともとの使用は,「個人主義」に対立するものとしてであって,オーウェンやサン・シモンによって現在使われているような意味をもたされたのは,「1830年代の半ば過ぎ」(34ページ)とした。「資本主義」の発見が本書のライトモチーフではあるが,「社会主義」もマルクス未来社会の展望と切り離せないはずである。マルクスの「社会主義」の発見と「資本主義」の発見とはいかなる関係にあるのだろうか。「『社会主義』という用語のはじまりについては,さらなる探索が必要であるのかもしれない」(36ページ)とするだけではすまない論点が含まれているように思われるからである。のちに,「資本主義 Kapitalismus」が「社会主義 Sozialismus」と対比的に使用されることになるとする指摘があるだけに(とくに「第8章」),なおさらそう指摘せざるをえない。
第二に,マルクスの「資本主義」認識について。最終ページに再掲した「図3」(ここでは省略)が本書「第2部 『資本主義』語なきマルクス」の要点である。「マルクスには『資本主義』という用語と概念は基本的には存在しておらず,マルクスにおいては資本主義範疇は『資本家的生産様式』という表現用語」(112〜3ページ。ボールド体:赤間)と。図の二重波線以降において明確に「『資本主義』範疇の確定」を主張し,「『資本主義』を最初にみつけたのはマルクス」(既引用)と「資本主義発見のプライオリティ」(150ページ)を強調している。その根拠を,「アンネンコフ宛の手紙」(1846年)および『哲学の貧困』(1847年)にもとめた。ここには,ヘーゲル市民社会論とは異なる,『ドイツ・イデオロギー』における「唯物史観の確立」を画期とした「『資本主義』範疇」の発見を重視する著者の発見がある。さらに,「『市民的生産様式』という用語は,資本主義範疇の表現用語としては過渡的性格をもたざるをえず,『資本家的生産様式』という用語表現を確定した後期マルクスにあっては“廃語”として消滅の道をたどる」(151ページ)。「資本主義」ではなく「資本家的生産様式」用語で資本主義を認識したとするなら,「あくまで『資本主義』という用語は拒否すべきものであって,『資本家的生産様式』という用語に固執すべきである,と考えてはいない」(283 ページ)とはならず,むしろ「固執」することによってこそ,著者の主張が一貫する。
第三に,「資本主義」用語の確定の意味について。さきに,評者は「社会思想史的密度」と表現することで本書を評価した。「ユニークな経済理論史」(帯)とも言い換えることができよう。そのうえで,19世紀半ばの時期にマルクスがおこなった理論的・実践的作業を,「21 世紀の現時点において新しく構築しなおすこと」(284ページ)を主張される。しかし,「資本主義」の発生,受容,展開を辿った本書のプロセスからは,それを見いだすことはかなり難しい。「資本主義」用語の確定は,われわれをどこに導くのであろうか。
妄言多謝。