書誌情報:平凡社新書(559),351頁,本体価格940円,2010年12月15日発行
- 作者:植村 邦彦
- 発売日: 2010/12/16
- メディア: 新書
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市民社会論をスミスから,マルクスから解放し,新しい政治的回路を構築しよう。市民社会概念を西洋とそれを特殊化した日本の系譜に遡って検証した著者のメッセージだ。civil society の語義に遡りその意味内容が変化して経緯を明らかにする部分と日本における受容を解明した部分とからなる。「市民社会」というひとつの言葉に込められた意味を問うことで,思想と実践の核心を探るきわめて濃密な書物である。
まず,civil society は古代アテネのアリストテレス『政治学』に起源をもち(ラテン語 societas civilis の直訳),16世紀半ばまでに世俗国家を表現する言葉として使われるようになったことを引証する。意味内容からすれば「国家共同体」を意味する civil society はイタリアの共和主義的人文主義とともに受容され,ホッブズやロックではヨーロッパ諸国の法制度の優位性と経済的豊かさを表徴する概念に変化する。さらにファーガソンの「国家=市民社会」と商業的社会という両義的な意味はヒュームとスミスによる文明化された社会とする市民社会論に取って代わられることになる。スミス流の文明化された商業社会を国家と区別し市民社会と再定義したのがヘーゲルである。マルクスはヘーゲルの用語法をそのまま継承し,市民社会を資本主義社会(bürgerliche Gesellschaft)に置き換えた(その先に「協同組合的社会」を展望する)。16世紀のイギリスから始まり18世紀フランス,19世紀ドイツにいたる「市民社会」の受容史は,「国家共同体」から「文明社会」を経て「資本主義社会」(「協同組合的社会」)への概念装置の彫琢でもあった。
「市民社会」の日本における変遷描写は本書のもうひとつの特徴だ。日本語の「市民社会」はマルクスからはじめて導入されたことと社会問題を生み出す矛盾をもつ経済社会として日本に投影したことを指摘したうえで,講座派の日本資本主義分析における日本資本主義特殊性論とスミス流市民社会論と結合した「日本には市民社会がない」という認識に結果したとみる*1。「1930年代の講座派マルクス主義と戦後の<市民社会論>は,「典型的な西欧社会を理想化して西欧なみの市民社会をつくりだすことを日本の課題とする」かぎりで,福沢の「文明化」論の末裔だった。しかし,<civil society>が「一国の体裁を成す」社会であり,「文明社会」にほとんど等しいことがもっと早く理解されていたら,少なくとも「日本には市民社会がない」という言説は生まれなかっただろう」(196ページ)。西欧中心主義の帰結というわけである。
著者の市民社会派への批判はつぎの引用に明らかだ。「マルクスの「市民社会」認識をスミスの「商業社会」と「政治的国家」の分離というマルクスの認識を帳消しにしてしまい,現実の「不自由・不平等・敵対」を観念的に解決するものとしての国民国家の社会統合的機能をとらえそこなった」(230ページ)。同時に「市民社会」という言葉は徐々に「現状批判のための規範的理念という牙」(243ページ)を抜かれ,「市民社会」論は「アソシエーショニスト」へと転向し「市民社会」概念を放棄する。
国家・政府の機能不全(=民主主義の不徹底)と革命・急進的改革の不可能性という悲観的見通しのもとで,「市民社会」論に葬送の辞を送った著者の視線は「政治的公共圏を通して国家の政策決定への影響力を行使することであり,政府に迫って企業の営利活動への規制を強化させること」(324ページ)に焦点を絞る。「市民社会」の執拗な追求によって「市民社会」論を脱して市民による社会づくりを実践させる着地点を見いだしたとすれば,日本の「市民社会」論者の存在もあながち無駄ではなかったようだ。
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