書誌情報:昭和堂,vii+254+iv頁,本体価格2,900円,2007年4月20日
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著者は,前著『階級!――社会認識の概念装置――』(彩流社,2004年1月,asin:4882028611)において階級概念の復権を主張した(評者の書評を参照。https://akamac.hatenablog.com/entry/20070313/1173755016)。本書では,階級社会と市民社会(階級論と市民社会論)として鋳直し,福祉国家論との関係を論じる(第1部と第2部)。グローバリゼーション論については著者によって新たに規定直された帝国主義論を対峙して対抗原理を説く(第3部)。
著者は現代社会の対抗的原理を不平等原理と平等原理(格差と平等の二律背反とも表現している)にもとめている。現代社会はつねに階級性と市民性の構造的な二重性を原理としている,格差社会(階級社会)と平等社会(市民社会)の二重性をあわせもつということである。
福祉国家論は階級社会と市民社会という二重性の理解に立って国家の二重性から説明されるとする。戦後の福祉国家が迎えている危機とは市民社会の危機ととらえられることになる。第2部での実際の論述は,富永健一批判と福祉資本主義の類型化による福祉レジームの検討であり,日本における家族主義的福祉制度の問題性の指摘である。政策課題を明確にした部分と読み取ることができる。
第3部はレーニンの段階論的帝国主義論を排しギャラハー=ロビンソンによる自由貿易帝国主義論(自由貿易による経済的支配という非公式の帝国主義と武力による領土獲得という公式の帝国主義と分けられるにしても帝国主義としては同じであり,程度の差と理解する考え方)を援用する。グローバリゼーションとは現象整理の概念にすぎず,ある実態を覆い隠す概念とする。公式の植民地を持たず,自由貿易を唯一の武器に公式帝国を拒否しながら,非公式帝国としての夢を追うのがアメリカであり,帝国主義の典型というわけである。アメリカが「世界の憲兵」として覇権を行使している金融的帝国主義がアメリカの素顔という。草の根反グローバリゼーション(いくつもの潮流が存在する)は資本主義の規制と帝国主義の抑制を通じてグローバルな市民社会の実現と位置づけられる。
本書は市民社会の現代的展開を目指したものと言っていい。巷間に流布している市民社会論ではなく,高島善哉(1904-90)によって主張された「市民制社会」概念だ。「市民制社会」は『社会科学の再建』(新評論,1981年,[asin:479489967X])で生み出され,最後の著書『時代に挑む社会科学』(岩波書店,1986年,[asin:400001031X])では近代的な生産力体系を意味するとされた。高島がその後おこなった講演記録をもとに紹介している*1。著者の市民社会論を整理しておこう。
日本で最初に「市民社会」を言ったのは大塚金之助である。大塚が一橋に市民社会論の種を蒔き,種を育んだのが高島だった。高島の「市民制社会」の造語は西欧市民社会から日本の市民社会を考えるためのものであり,啓発的な意味と生産力体系という普遍的要素を抽出するためだった。丸山眞男,大塚久雄は市民社会という言葉を慎重に避けており,市民社会論者ではない。丸山,大塚を市民社会論派としたのは,内田義彦の「市民社会青年」であり,日高六郎の「近代主義者」の分類からである。正統派マルクス主義への距離をもたせるため,あるいは教条的マルクス主義と反共的自由主義いずれにも与しないと意味だ。ところが平田清明になると,マルクスに市民社会概念を見いだすという形で「通俗化」「矮小化」「経済学化」「マルクス経済学化」(36ページ)されてしまった。
高島の市民社会論とは「資本主義的な観点から市民制社会を活用していく,利用していくというか,運用するというか,そういうもう一つ高い立場」(27ページから孫引き)であり,著者が引き継ぐ市民社会論だ。著者のいう社会の二重性の重視の意味がようやく合点した。内田,平田らの市民社会論は別の系譜の市民社会論ということになる。著者からの問題提起と受けとめておきたい。
*1:本書によれば,最後の著書の出版後2回の講演をおこない,一橋の同窓会組織如水会のウェブhttps://www.josuikai.net/で読むことができるとあった。現在は残念ながら公開されていないようである。如水会員なら読むことができるのか不明。