012渡辺雅男著『階級!――社会認識の概念装置――』

書誌情報:彩流社,286+24頁,本体価格3,000円,2004年1月15日

階級!―社会認識の概念装置

階級!―社会認識の概念装置

初出:新日本出版社『経済』第104号,2004年5月1日

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本書『階級!』は,階級概念の復権をめざしてそれと格闘した社会科学の知的営為の成果である。三谷幸喜の『新選組!』を思わせるように,タイトルこそいくぶん奇をてらってはいても,その内容には階級概念と誠実に向かいあった著者のほぼ十年の探求と階級概念をないがしろにした諸説への批判とが凝縮されている。「!」は「どっこい生きている」(12頁)という著者のメッセージだろう。
「序章 階級論の復位」では,階級概念をタブー視してきたとして,特殊日本的ともいえる社会科学への批判を,階級関係の制度化という視点で提示する。本章は二つの論点をふくんでいる。ひとつは,日本ではなぜ階級が問題にされてこなかったのか,であり,いまひとつは,「剥き出し」と「制度化」の理解,である。
まず,最初の点については,著者によれば,「第二部」で再構成したマルクスヴェーバーの階級論がそれぞれ皮相的にしか理解されてこなかったこと,もしくは誤解されてきたことによる(「第二部」が配されているのはこれによる)。身分的解釈(階級と身分との同一視),経済一元論的理解(近代的階級と経済的階級との同一視),一枚岩的理解(階級内の階層性を無視),独善的理解(階級の相対性と絶対性との同一視),そして宿命論的解釈(歴史的文脈を無視)と,著者によってまとめられた階級概念の誤解は,「事実上マルクスへの誤解と表裏一体の関係」(49頁)なのである。くわえて,もともと階級概念を発展させるべき「正統派マルクス主義者」が階級消滅論や階級撲滅論に対抗しえなかった以上に,学問的な世界から階級概念を放逐しようと躍起になってきた「講壇社会学の研究者たち」の責をするどく指摘する。著者による「階級論の復位」は,階級という「概念装置」(内田義彦)を組み立てることができない社会(科)学者への批判であるだろうし,「正統派マルクス主義者」への叱咤激励でもあるだろう。
著者の階級分析は,ふたつめの論点である「制度化」を特徴とする。著者は階級関係の制度化を,家族,市場,政治,教育の四つの柱にみる。家族は福祉国家とのかかわりにおいて,市場は資本市場と労働市場の組織化とのかかわりで,政治は民主主義的代議制度とのかかわりにおいて,そして,教育は社会権の実質的内容とのかかわりで分析される。もし,この制度が機能しないとすればどうなるか。著者の「制度化」論は未来社会への見通しと交差する。
「第一部 現代日本における階級の発見」においては,階級の現実の姿を再発見し,階級否定論を批判する三章が配される。「第一章 労働者階級の発見」では,現代の労働者階級を社会的格差(賃金・所得・資産・教育・生活意識)と現状(労働過程・労働市場・生活構造・社会移動)から概観する。「第二章 資本家階級の発見」では,資本家階級を経営資本家階級と確認し,経済的・政治的・社会的ネットワークの網の目を階級の特徴として析出する。同時に,「剥き出しの階級社会」(162頁)と異なる普遍的シティズンシップの実現による階級関係の制度化が強調される。「第三章 中間階級の発見」では,独立自営層にその典型をもとめ,経済的・政治的実態を明らかにするとともに集団としての階級的特質をまとめている。
労働者階級の析出にあたっては,格差(賃金・所得・資産・教育・生活意識)と現状(労働過程・労働市場・生活構造・社会移動)の両面から,現代の階級としての労働者の実態を描く。
資本家階級については,まず資本家を「人格化された資本」,資本家階級を「資本の人格化を受けて振る舞う社会的人口部分」と概念規定したうえで,株式会社制度と経営資本家を現代の資本家階級とする。さらに,役員と従業員とのあいだに横たわる「法的に表現された階級的分断線」を,集団とネットワーク(学歴,血縁,経済的,政治的および社会的)の強靱さをそれぞれ確認する。著者が現代の資本家階級の発見にあたって強調するのは,ここでも「制度化」である。「普遍的なシティズンシップの実現のために階級関係が制度化」(162頁),「平等と不平等を二重原理として内包する」現代社会(163頁),「市民社会と階級社会の二重構造」(同)などとする理解がそれである。「制度への参加が表面的にはすべての人に平等,公平,自由に開かれているとしても,その結果として制度が生み出すのは,階級的不平等と階級支配と階級関係の再生産である」(164頁)。
中間階級については,経済的実態を自己雇用,独立自営,家業および生業とし,政治的実態を個人,職業集団および地域集団からとらえる。これは同時にひところ喧伝された「新中間階級」論や「新中間層」論の誤りをも衝く議論に重なる。
「第二部 階級論の古典的伝統」においては,階級論の源流をマルクス(「第四章 マルクスにおける階級の概念」)とヴェーバー(「第五章 ヴェーバーにおける階級の概念」)にもとめ,両者の階級論の全体像を再構成している。著者は,マルクスの階級概念の検討から「階級関係の制度化の背後に所有の制度化」(282頁)を,ヴェーバーの階級概念の検討から「合法的支配関係の制度化の背後に権力支配の制度化」(同)をそれぞれみることで,現代社会における諸階級の発見につらなる「所有と支配の制度化によって引き起こされた階級社会の制度化」(同)を引き出す。階級概念の古典にたちかえった著者は,「序章」と「第一部」における「即自的階級」(同)の描写とともに,ここ「第二部」では「対自的階級」(同)を暴露する。
本書における「階級関係の制度化」論は,「階級概念の復位」と「発見」から古典の再読まで一貫している。グローバリゼーションが声高にさけばれるなか,だからこそ階級論が必要だとする著者のあまたの既成の階級論にたいする批判と自説の展開とは,高く評価されていい。バブル崩壊後の長期にわたる不況を背景にしたいくつかの「不平等」論や「格差」論と本書との最大の違いは,本書の言葉を借りれば,「以前は平等だったが,最近になって不平等化した」(36頁)のではけっしてなく,「今も昔も,等しく不平等である」(同)。階級が厳然と存在すると主張することは,「安易な解放の物語」(24頁)を紡ぐことでも,階級支配の「鉄の檻」(同)に安住することをも意味しない。社会科学の醍醐味と知的興奮を与えてくれる好著である。
【末尾に。いくつかの表(表2-4,2-8,2-11,3-1)の数字桁が不揃いのためきわめて見にくい。また,いくつかの表記上のミスがある。体裁上の改善として指摘しておく。:初出時この部分は割愛された。2007年3月13日補注。】