027松尾匡著『「はだかの王様」の経済学――現代人のためのマルクス再入門――』

書誌情報:東洋経済新報社,xxi+288頁,本体価格1,900円,2008年6月19日

「はだかの王様」の経済学

「はだかの王様」の経済学

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快著というべきだろうか怪著というべきだろうか。マルクス疎外論ですべてを説明できるとすることではまさしく快著である。ゲーム理論に代表される制度分析の経済学がマルクス疎外論の地平と同じと主張することでは怪著である。マルクス再入門を企図した本書がすでに多くの読者と反響を得ているのは快か怪かを見極めたいという読者の好奇心をくすぐるからだろうと思う。
とりあえず,評者は本書をマルクスの解著(解説書あるいは理解書の意を込めた評者の造語)と読んでみる。「人々がお互い意思疎通ができないときに,観念がひとり立ちしてしまう」(20ページ)と解した疎外論(第1章から第5章)とその克服によって成り立つとみる主流派経済学の説明(第6章と第7章),アソシエーション構想をもとにした疎外の克服(第8章),本書のテーマはこの3点にある。
(1)「はだかの王様」は疎外か
著者が理解する疎外は,「はだかの王様」と同じだという。「はだかの王様」とは,本当ははだかなのに王様の威に逆らえずはだかといえない滑稽さと純真かつ正直なこどもによる告発という有名な童話だ。この童話のポイントは,本当は王様ははだかだということと,ある種の権力関係が作用してはだかといえないということ,つまり真実と虚偽とは誰にでもわかるということである。ところで著者によれば,うえに引用したように,疎外とは「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」などいったんできあがってしまうとわれわれ人間から独り立ちしまうことをいう。とすると「はだかの王様」はどうして疎外なのだろうか。「はだかの王様」は最初から最後まではだかであって,「思い込み」でも「決まりごと」でもない。王様の機嫌をとるためにひとりの子供をのぞいてみながみなすばらしい服だとほめたのにすぎない。著者はうまいと評判になっているラーメン屋,イジメ,アメリカとの開戦などもすべて疎外によるとし,情報の非対称性,虚偽状況,権力関係が存在することによって真実をいえない状況まで疎外概念を拡張する。これらはいずれも「観念がひとり立ちしてしまう」状況とは異なるだろう。
もともとマルクス疎外論は,(1)労働者からの労働生産物の疎外,(2)労働の疎外,(3)労働する人間の自己疎外,(4)人間からの人間の疎外,を論じ,私有財産制度のもとでの本質は疎外された労働であること,社会関係の表現であることを確認することを特徴としていた。人間の自己疎外とは(初期)マルクスにとっては人間本質に関わらしめた包括的概念であった。この疎外論は「経済学的諸範疇の人格化」として商品,貨幣,資本,労働力,土地の所有者を扱う(後期)マルクスの経済学批判に継承され,物神性論(物象化論)と深められる。著者がマルクスの問題意識の核心を疎外にもとめるのは間違いではない。が,マルクス疎外論は最初から最後までノッペラボウのそれだけではなかった。
他方,絶対王政ボナパルティズム古代オリエント専制の例にあるように,「疎外がどうしても起こってしまう原因を現実社会の中に見いだ」(92ページ)すことに疎外論の核心がある。読者に分かりやすく疎外を説明しようとする意図はわからないわけではない。「はだかの王様」状況をもって疎外と呼ぶことには抵抗がある。著者が「疎外の図式」((90ページ)や「マルクス疎外論の公式」(93ページ)とまとめている疎外は,「はだかの王様」と同じではない。「はだかの王様」は「観念がひとり立ち」しているわけではないからだ。
(2)貨幣は「思い込み」のひとり立ちか
著者は貨幣の本質を「はだかの王様」と同じだという。昔の金貨から現代の紙幣まですべて人間の思い込みから生じるとするのは違う。貨幣が貨幣たるゆえんは,労働生産物が商品になるやいなや商品世界の価値表現の展開によって必然化する実体がある。著者はこのことを認めながら,貨幣は「はだかの王様」と同じとするのには矛盾があろう。「はだかの王様」の原理で貨幣が生じたのではけっしてない。もし,同じであるならば,貨幣を貨幣と思わなければ貨幣ではないのだ,という思い込みをなくすことによって貨幣を廃絶できることになる。思い込みを正すことで貨幣をなくすことができるのであれば,これほど簡単なことはない。貨幣の成立を「思い込み」から説くのは,貨幣は最初から貨幣だと主張する以上に,価値形態論の誤読ということになるだろう。
著者は,貨幣から価値・価格・搾取,さらには蓄積という資本主義経済の仕組みに関わるマルクスの分析を,貨幣と同様疎外論で説くことができるとし,その解説をしている。資本主義社会のメカニズムを著者のように疎外論として分析しようというのは,かつて廣松渉が試みたように(『資本論を物象化を視軸にして読む』岩波セミナーブックス,1986年7月),ひとつの説明の仕方であろう。紙数の関係からだと推測するが,もし『資本論』に沿って展開するのであれば,資本ー利潤,労働ー賃金,土地ー地代という「経済学的三位一体論」に是非触れて欲しかった。「経済学的三位一体論」は,これまでの経済学を振り返って,生産の3要素が収入の3要素と直結してしまう限界を指摘したものだ。資本が利潤を,労働が賃金を,土地が地代を,それぞれ生むという観念は,この社会にあっては当然のごとく見えてしまう根拠をもつ(「観念のひとり立ち」)。「経済学的三位一体論」はマルクス以前の経済学者の「思い込み」ではなく,そのように見えてしまう理由を――発見した剰余価値論を武器に――抉ったものだ。疎外論の理解を援用し,「経済学的三位一体論」を介すれば,制度分析の経済学への評価も違ったものになったはずだ。
(3)方法論的個人主義ゲーム理論は対抗理論か
個々人の最適選択が既存の秩序や制度の制約を受けており,社会変革の客観的な根拠や見通しを付与してくれる。その意味で,方法論的個人主義ゲーム理論は体制批判的だと著者は主張する。著者も読んだという『ビューティフル・マインド』(新潮社,2002年3月)にこんな一説が出てくる(映画は,スミス理論を覆す着想についての印象的なシーンもあったが,重度の精神疾患が「寛解」しノーベル経済学賞を受賞する状況に焦点が当てられていた)。
「ある日,ナッシュは,クラスメートに誘われてプールバーにやってきた。そこに3人の女性が入ってくる。そのうちの1人はブロンドで,際立った美人。まわりの男子学生の目はみな,そのブロンドに集中していた。そのとき,ナッシュに神の啓示のような衝撃が走った。従来の競争理論に基づけば,男たちはブロンドを奪い合った末,誰もが彼女を手に入れられない。しかし,もし男たちが自分の利益とグループ全体の利益を同時に追求して,ブロンドをあきらめてほかの2人の女性を口説いたなら,誰もがいずれかの女性を手に入れることができる。ナッシュはこれを定式化した。それは,150年間も定説とされてきたアダム・スミスの理論を覆す,単純で美しいナッシュ独自の理論の構築だった。」(4-5ページ)「1950年以来,囚人のジレンマを素材として,協力と裏切りの決定要因に関する無数の心理学的文献が生み出された。このゲームは,相手が最高の戦略を選択すると仮定した場合,自分も最高の戦略を選択するというナッシュ均衡が,全体の利益という観点からは必ずしも最善の行為とはならない,という事実を顕著に示している。かくして囚人のジレンマは,アダム・スミスの「見えない手」の比喩を否定することになる。個々人が自己の利益を追求するときに,必ずしも全体の利益が促進されるとは限らないのだ。」(171ページ)
スミス的均衡の克服は個と全体とのバランスのうち個の追求を善しとする行為が全体の善とはなりえないかぎりでのものであり,スミス的世界=「経済学的三位一体」の否定ではない。もし,方法論的個人主義に立つ制度化された経済学やゲーム理論マルクス代替理論たりえるならばマルクスをあえてやる必要性はまったくない。もちろん,著者が数理経済学マルクス経済学への理解と制度化された経済学の成果を吸収しようとする姿勢を買いたいが,すでに触れたように,著者の疎外論的理解がマルクスの経済学批判と十分に接合されていないがために,方法論的個人主義ゲーム理論をして体制批判たりえるとしたことに繋がっていると思える。
(4)「思い込み」と疎外なき社会
「思い込み」が疎外とするなら,疎外の克服は簡単だ。「はだかの王様」の正直なこどもがいればことたりる。この意味では,著者の疎外論理解ではたして疎外の克服が可能かどうかは疑問なしとしない。著者は疎外を「はだかの王様」と同じと何度もまとめているが,実はこどもの登場で解決できるとは見ていない。「ひとりひとりの合意によってみんなの都合のいいように,社会をコントロールしていくこと」,「自分たちの手の届く範囲から疎外を克服していこうという試み」(236ページ)を提唱しているからだ。
著者の疎外なき社会構想は,アソシエーション社会である。「依存関係を合意でコントロールするためのネットワーク」(269ページ),「一種の下からの計画経済」(同),「市民参加のまちづくり」(270ページ)などと言い換えられている。疎外の克服は着実な日々の実践の延長にしかない。そのことと,著者が析出した「全面的に発達した人間」(143ページ)との結びつきは,日暮れて道遠しの感はある。
疎外論を中心にした本書の解著としては不満がある。だが,疎外なき社会の構想と今できることをしようとの姿勢は評者はまったく同感だ。「ヨシっ!」だ。