025重田澄男著『マルクスの資本主義』

書誌情報:桜井書店,255頁,本体価格3,800円,2006年4月25日

マルクスの資本主義

マルクスの資本主義

初出:本エントリー→https://akamac.hatenablog.com/entry/20070623/1182590356 のちに大幅に加筆修正して,基礎経済科学研究所『経済科学通信』第115号,2007年12月20日,に掲載。なお,本エントリー掲載にあたっては,最終校正原稿をもとにしたものである。

  • -

著者は前著『資本主義を見つけたのは誰か』(桜井書店,2002年4月,[asin:4921190151])においてすでにマルクスによる「資本主義」発見とその前後について詳細な分析をはたし,「ブルジョア的生産様式」用語が「資本にもとづく生産様式」を経て最終的に「資本制生産様式」に転生する過程を追い,前者であっても後者であっても資本主義という対象的事物としては同一であることを確認した(評者は書評の機会を与えていただいたことがある。経済理論学会第50 回大会(岐阜経済大学)第9 分科会:書評分科会報告,2002年10月19日。評者のブログに再掲。https://akamac.hatenablog.com/entry/20070308/1173338502)。
著者による資本主義発見と資本主義用語の確立の探求は,四半世紀前に遡る。著者は,『資本主義の発見――市民社会と初期マルクス――』(御茶の水書房,1983年;改訂版:1992年,[asin:4275013778]),『資本主義とは何か』(青木書店,1998年,[asin:4250980413]),前著と執拗に肉迫し,本書ではそれらの成果の総括を試みたものだ。前著の第1部「「資本主義」語のはじまり」においては,フランスの初期社会主義者ピエール・ルルー (Pierre Leroux, 1797-1871),ルイ・ブラン (Jean Joseph Charles Louis Blanc, 1811-82) ,イギリスの小説家サッカレー (William Makepeace Thackeray, 1811-63)およびフランスの社会運動実戦家ブランキ (Louis Auguste Blanqui, 1805-81)をとりあげている。彼らがマルクスにさきだって「資本主義」という言葉を使っていることを考証すると同時に,「資本主義」が「資本家」(ルルー),「資本の排他的占有」(ルイ・ブラン),「ブルジョア的気分」(サッカレー)および「資本」「資本家」(ブランキ)を意味しているにすぎないとした。
ここに,マルクスが「資本主義」に含意した社会体制や経済システムとは異なることを示すことによってマルクス登場の意義を確定できることになる。「資本主義」を最初に見つけたのはマルクスであり,用語としての「資本主義」という言葉そのものの最初の発見者はマルクスではなくルルーである,とするのは,まさしく著者による「発見」であった。また,第3部「「資本主義」用語の継承と変容」においては,前記シェフレ,ホブソン (John Atkinson Hobson, 1858-1940)およびゾンバルト (Werner Sombart, 1863-1941)をとりあげ,マルクスから「資本主義」概念を「継承」しながら,「社会的な結合形態」(シェフレ),「機械制産業」(ホブソン)および「資本家的精神」をもった「資本家的企業」(ゾンバルト)として「変容」していることを指摘した。前著第2部で扱った,マルクスによる「資本主義」概念の発見をさらに拡充し,整理したのが本書になろう。「本書によって,資本主義用語にかんするわたしの研究は,出発点としての《原点》に立ち返り,円環は閉じることになった」(246ページ)。
資本論』における資本主義概念は「資本主義 Kapitalismus 」ではなくて「資本制生産 kapitalistische Produktion 」と「資本制生産様式 kapitalistische Produktionweise 」である。形容詞 kapitalistisch は直訳では「資本家的」に,通常では「資本主義的」とされている。「資本主義 Kapitalismus 」はマルクスにあっては例外的に(『資本論』中で1個所)使われているだけであり,その形容詞的概念になる「資本主義的○○」とは使うべきではないとする著者の信念がある。「資本主義 Kapitalismus 」という用語はマルクス死後一般に普及し,たとえばドイツ語 Kapitalismus や英語 capitalism は普通に使われている。この資本主義概念は『資本論』執筆構想が具体化する過程(1860年前後)で使われるようになったものであり,それ以前はフランス語形で「ブルジョア的生産 la production bourgeoise 」やドイツ語形で「ブルジョア的生産様式 bürgerliche Produtikionsweise 」といった用語で表現されていたものであった。
資本論』では「ブルジョア的生産」「ブルジョア的生産様式」はほとんど使われず,「資本制生産」「資本制生産様式」用語に全面的にとってかわられている。「ブルジョア的生産(様式)」の使用は「落ちこぼれ的に残った」(178ページ)ものであり,ゆくゆくは「死語」「廃語」(179ページ)になる言葉である。「資本制生産」は生産そのものについて,「資本制生産様式」はより広がりをもった経済関係についてのあり方,を示す。このように,マルクスの資本主義概念は規定さるべき実体のない「資本主義」ではなく,生産や生産様式の特殊なあり方としての理解を前提にしたものだ。そのことは,生産手段が資本の,人間労働が賃労働の形態をそれぞれとるものとして,生産活動の起動因と目的が剰余価値の生産と資本による獲得であることを示すものにほかならない。
本書はマルクスを対象とした近代社会認識を追究してきた著者の集大成である。評者は前著にたいして「『資本主義』概念の社会思想史的密度を格段に濃くした」と評したことがある。本書は資本主義の発見者マルクスによる資本主義概念を再確認する書だ。前著で得た知見に新たに付加すべき発見はとくに見あたらないものの,本書には著者による「資本主義」追究のすさまじい格闘の痕跡がいたるところに見いだすことができる。
著者の長年にわたる「資本主義」概念の探求によって,たとえば「資本主義ということばがつくられたのは19世紀になってからのことである」(神武庸四郎『経済史入門――システム論からのアプローチ――』有斐閣,2006年12月,92ページ,https://akamac.hatenablog.com/entry/20070830/1188464972)というように,学界で共有される常識となった。さらに,前著の主張のエッセンスは,Sumio Shigeta, Zur Geschichte der Terminologie des >>Kapitalismus<< im 19. Jahrhundert, in Beiträge zur Marx-Engels-Forschung Neue Folge 2004.としてドイツ語でも公表されている。同時に,前著と同様本書でも(終章「現代社会と資本主義概念」),「資本主義」概念のもつ現代的意義をまとめているが,現代資本主義分析と「資本主義概念」追究との懸隔はそのまま残っていると言わざるをえない。マルクス研究としてひとまず完成させ,そのうえで現代資本主義分析のアプローチからそれを顧みたほうが首尾一貫したのではないかと思う。
本書は同時に――現代資本主義分析という著者の本来の課題について未練を残しながらも――著者の研究史の回顧でもある(「あとがき」に詳しい)。独占理論や失業論,恐慌論などの理論問題から宇野理論や市民社会論への批判にいたる過程で著者が直面した問題に対峙したとき,それらの底流に「資本主義」概念の問題があることを見抜き,自己研鑽の対象にしてきたことにこそ著者と本書の意義がある。マルクス以前,マルクスマルクス以後における「資本主義」概念の展開はほぼ確定的に言えることになったからである。