初出:大東文化大学経済研究所『経済研究研究報告』第14号,2001年3月31日
- -
はじめに
本稿をはじめるにあたって,イリイチの言葉を引こうと思う。
「すぐれた教育制度は三つの目的をもつべきである。第一は,誰でも学習をしようと思えば,それが若いときであろうと年老いたときであろうと,人生のいついかなる時においてもそのために必要な手段や教材を利用できることにしてやること,第二は自分の知っていることを他の人と分かちあいたいと思うどんな人に対しても,その知識を彼から学びたいと思う他の人々を見つけ出せるようにしてやること,第三は公衆に問題提起しようと思うすべての人々に対して,そのための機会を与えてやることである(中略)すぐれた教育制度の下では,本当に誰もが自由に論じ,自由に集会を持ち,自由に報道ができるようにし,またそれゆえにそれらのすべてが十分に教育に役立つものとなるように近代的科学技術が用いられるべきである。」(イリイチ,1997)
21世紀においても資本主義が存在するかぎり,サラリーマンやあるいはその言葉がたとえ死語になったとしても,いずれにしてもサラリーマン的労働者は残る。マルクスの資本主義批判をすべて肯定せずとも,一方で資本なる存在が消滅しない以上,他方における生身の肉体を商品として販売せざるをえない圧倒的多数の労働力を必ず必要とするからである。いま引いたイリイチの言葉は,労働力提供者というごく狭い定義における人間のみならず,社会に生きる人間を対象としているから,サラリーマンもサラリーマン的労働者もひとしくこの「教育制度」の対象でありつづける。いな,さしあたり21世紀――たんなる時間的区切りにすぎない以上――が,その数が多数を占める現代社会の延長であるとするなら,サラリーマンが――その階級的特徴づけを省いて言えば――減じる予兆も,はては消えてしまうこともないから,「近代的科学技術」をわが身と受けとめる主体であることは間違いないであろう。
本稿は,21世紀における知の主体としてサラリーマンを想定している。その意味は二重である。資本主義が変容を遂げ,市場経済の姿をとりながら冷戦体制を崩壊させた真の原因=民主主義*1をさらに普遍化・深化させる可能性を有しており,その主体の一翼をサラリーマンが担えるのではないかとの思いがあるからである。さらに,こう見ることによって,逆説的にサラリーマン社会が人類社会におけるひとつの歴史的使命をおえ,ひょっとすると別のなにものかを準備するのかもしれないという冷静でかつ客観的な視点が摘出できそうな予感をも持つからである。
サラリーマンという言葉とその実態については,戦前から現代にいたるまで田中,中村,中島の各稿が扱っている。そこで分析され検証されたサラリーマンがはたして名実ともに21世紀の主人公として描きえるかどうか。知の変貌とその担い手の関係を論じることで21世紀のサラリーマンを,筆者の主観的願望もこめて未来図を描いてみよう。
I 現在の位置:知のゆらぎと21世紀
21世紀といってもたしかに人為的な時間の区切りであって,人類社会をある一定の規矩から時間軸を設定したにすぎない。2001年をむかえてこの国の元号をして一時的に彼方に放逐したかのように見えたのと同様に,21世紀もまた別の時間軸によって区切られるのかもしれない。
21世紀に先立つ20世紀は,ラディカルな知的変遷を遂げている。19世紀末のニーチェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche) の現代文明にたいするシニカルな思想対峙を嚆矢として,それまでの近代思想とりわけ西洋思想分野における批判と修正が,フッサール (Edmund Husserl) やハイデガー (Martin Heidegger) らによって試みられた。もちろん,インテリゲンチャを中心とし,限られた圏域とはいえ,第二次世界大戦後の思想界や知的雰囲気に大きな影響を及ぼしたとみることができる。ベルクソン (Henri Bergson) ,ホワイトヘッド (Alfred North Whitehead) ,ウィットゲンシュタイン (Ludwig Wittgenstein) ,ベンヤミン (Walter Benjamin) ,なども挙げられよう。
フロイト (Sigmund Freud) による人間の深層心理分析は,それまでの人間の合理的かつ理性的心象と行為への懐疑を提示した。「無意識の世界」の発見は,西欧を中心とする科学技術方法論のみならず人間個人の知的活動の領域である芸術一般にもひろく影響を及ぼした。
物理学分野におけるアインシュタイン (Albert Einstein) の相対性原理,ハイゼンベルグ (Werner K. Heisenberg) の不確実性原理およびボーア (Niels H. D. Bohr) の相補性原理は,物質世界の究極の対象を広げることによって,それまでの科学的認識の限界を示すとともに新しい認識対象の拡大を示唆した*2。
科学における知のゆらぎとともに,世界的な社会運動のうねりも忘れられてはならない。絶対的な知への懐疑は既成の秩序一般にたいするプロテストとして,また知そのものへの転回を現出させた。女性の男性主導の現代社会にたいする異議申し立てにはじまるムーブメントは,マイナリティーへの差別撤廃運動とも呼応し,いまなお課題としては解消されていないものの,現代にも連続する社会運動として位置づけられよう。また,企業社会に警鐘を鳴らすきっかけとなった公害問題,交通問題や環境問題への取り組みと具体的示威行動は,反対するためのものだけでなく,オルタナティブな主体を示そうとした点で,これまた現代をも貫く視点を提供した。ベトナム戦争に反対運動も,フランスにおける「5月革命」,日本における「大学闘争」も,世界的な反体制運動のかぎりにおいて――これらをどのように「総括」するかはここでは論じないが――これら社会運動の大きなうねりに含ませることが妥当だろう*3。
民主主義が根をはり,主体たる人々が力量を増大させたとはいえ,これら社会運動は世界と各国の年表に事実を書き込まれたにすぎなかった。挫折と負の遺産を残しながら,知のゆらぎと結びついて確たる未来社会の到来を引き寄せるまでいたらなかった。しかし,近代社会を動かしてきた歯車が蹉跌をきたしたのは事実であり,権力者をして危機意識をつのらせたのは疑いえない。
いまひとたび知の場に転じれば,その後一種の相対化が進んだようにみえる。一般システム論,新科学哲学,記号論・言語論,構造主義,ポスト構造主義,ポスト・モダン論などと称される一群の新しい装いをとったカオス状況は,近代の近代性を再考を促す。「60年代以降における数多くのパラダイムの簇生は,3つの立場,つまり新科学哲学の成果,ポスト構造主義者の『遊牧の知』,リオタールの『ポストモダンの特徴』*4」を持つものとして特徴づけることが可能だとすれば,そこで語られる知の内容は複数の知の内容に優劣をつけたり,ある特定の知に特権的地位を与えたりすることとは無縁である。近代科学の視線がつねに分析的であり,要素に還元することに向けられた,そうした視線にたいする挑戦がカオス的状況としてあらわれたのであろう。
II メディアの変貌と知の可能性
インターネットにおいて将来社会の可能性の萌芽を読みとろう,摘み取ろうとするとき,なによりもまずインターネットの思想的バックボーンが抉りだされなければならないだろう。語の正しい意味での Hacker ハッカーたちが,インターネットの基幹思想を構成した彼らが,イリイチ (Ivan Illich) の思想から大きな影響を受けたという。conviviality (普通「自律(立)共生」と訳されている)という言葉がそれを象徴しているというのだ。人間が生み出した便利なはずの道具が人間自身を逆に管理してしまうというパラドックを,「機能の専門化と価値の制度化と権力の集中をもたらし,人々を官僚制と機械の付属物」ではない「人間の能力と管理と自発性の範囲を拡大する」道具へと転換させるためにこそ,コンヴィヴィアルな(みんなで一緒に楽しい)道具としてのパソコンが必要だったのである*5。
メディアはたんなる手段や道具,ましてやテクノロジーではない。ひとたび人間生活と密接不可分な存在になれば,感覚はもとより神経や思考にも浸透しつつ,主体たる人間を変えてもしまう。メディアを介して人間は外部世界を認識し,それを通じて感情や思考を表現する。知の可能性を論ずるとき,このメディアの態様をおさえることが肝要になるゆえんである。
人類史の歩みとメディアとの関係は――時間軸を千年紀 (Millennium) とすれば――,(1)音声メディアと話し言葉の文化,(2)印刷メディアと文字文化,(3)デジタル・メディアとハイパー/サイバー文化,と大まかに捉えることができる。まず(1)における知は,「物語の知」を,(2)における知は,「分析の知」を,(3)における知は,「新しい知」をそれぞれ創造する*6。(3)のうち筆者が注目するのは,一種の市民社会的関係におかれている諸個人が自立分散することで,あらためてネットワークを通して相互関係をもつということである。(1)(2)が総じて口承やある特定の場,さらにはある特定の書物や限られた発表の機会をもつだけなのと好対照である。もちろん,諸個人の思惟の営みは個人に帰着するという普遍性は貫くとしても,デジタル信号に分解される情報はこれまで経験したことのないメディアのあり方である。
コンピュータ・サイエンスおよびコンピュータ・テクノロジーの進歩を背景にして,現代社会をして「情報化社会」と一言で特徴づけることがある。しかし,これらの進歩そのものをもって,現代社会を,ひいては未来社会をあたかもバラ色に描くのは正しくない。社会を構成する諸個人の市民としての成熟度合い,コミュニティ創造能力などが同時に確定されなければならないからだ。たしかにインターネットのコミュニティーは「特殊な社会的コンテキスト」で成立している面があり,「近代産業社会の基本的なしくみの上に咲いた『楽園』」かもしれず,また「『寄生』した先祖返り」なのかもしれない。インターネットに出現している胎動が「原近代の再生」であるかぎりでは,いずれ資本主義的商業主義に蚕食されてしまう運命をもつのかもしれない*7。一定の限界はあれ,市民生活々にネットワークが浸透することによって,社会各層において「ひと」と「ひと」との関係が変容するとともに,いままでになかった知的営為の主体が登場するようになっている。
パソコンとインターネットとは,市民を主人公にした社会の再構成という思想の具体化として,必然的に結びつくことになった。情報技術の発展の結果としてコンピュータのダウンサイジングが起こり,パソコンが普及し,それをつなぐことでインターネットが実現したのではない。結果の演繹的脈略としては事実の一端を言い当ててはいても,インターネットの思想的解剖としては正しくない。この「もの」と「もの」との対面した世界は,しかし旧来の時間的・空間的制限を一挙に取り払ってしまった。ともかく,世界大につながっていること,デジタル情報共有システムであることによって,コミュニケーション手段の変容を劇的にもたらした。 UNIX という基本ソフト (0S) が開発者責任主義でかつ技術情報の公開=共有だったから,AT&Tベル研究所で開発された一ソフトという性格から,技術開発上の標準としてインターネット関連のリソースが無償で提供される素地になったことにも留意したい*8。
III 協同創出の試みへ
「もの」と「もの」との世界の一連の変容は,思想を吹き込むことによって血の通った「ひと」と「ひと」との世界に影響を及ぼす。
第1に,自己提示の姿勢である。ウェッブに端的に見られる「自己紹介」「プロフィール」である。これを「ゴミ」とか「ちらし広告」とか「ジャンク情報」とか評する「文化人」がいるが,「文化人」ではない普通の市民生活を送っている人たちがそうした客観化する営為を通じての自己確認,アイデンティティの回復行為であることを見る必要がある。かつてなら知性の発露が媒体の種類にいちじるしく制限されていた。主として印刷物として知性の織りなす作品が発表されたから,ごく一部の「知識人型」知性しかその媒体を利用できなかった。逆にいえば,知性的活動を客観化するという行為は,市民的市民には到底できないあまりにも縁遠いことであった。表現活動が媒体によって制限されていたこと,表現したい市民・表現する能力を持った市民の表現の場がなかったことの重大性にもっと着目していい。いまインターネットを通じて表現活動を得た市民が,たとえ「ゴミ」・「ちらし広告」・「ジャンク情報」とかといわれようと,水を得た魚のようにエネルギッシュなのはこのことにかかわる。
第2に,市民的専門家の登場である。いま触れたことともかかわって,印刷物としての学術的成果物は,流通経路も販路も特定の読者を想定したものだったから,書き手も大学の研究者が主であった。いま,そうした研究者がインターネット上で何を公開しているかというと,多くは肩書き,著作リストそしてシラバスだ。研究業績としては紀要・本,インターネットでは「ちらし広告」という二重のスタンダードを実践しているというわけだ。市民的専門家ははじめから違う。大学の外にいて,抑圧されたきた知の発露をインターネットにもとめ,インターネットを通じて検証してもらおうというのだ。未だ少数とはいえこれらのディレタントは並の研究者より勉強家であり,学びたい・表現したいという意欲が強いだけ刺激的ですらある*9。
いま確実に市民が変わりつつある。未来を予見し,大衆を「良き」方向に導くはずだった「良識」ある知識層が,ネットワーク社会を眼前にして右往左往の体たらくだからである。評論という安定した生活圏にひたすら身を置く。すでに敷かれたレールのうえを,一定のルールにしたがうかぎり得られる安定。資本主義社会における知性のあり方が根底から問われているというのに。
アカデミズムはそれでも捨てたものではない。第1は,アカデミズムの脱アカデミズム化による評価システムへの志向ケース。二村一夫は,『二村一夫著作集』 The Writings of NIMURA KAZUO をインターネット上で編む試みをはじめた。「私がこれまでに書いてきた論文やエッセイなどを,なるべく多くの方に読んでいただきたいと思い,オンラインで『二村一夫著作集』を刊行」する試みであって,第1期分のうち4巻を1997年12月にほぼ刊行を終え,1998年2月から第2期の刊行がはじまった。全11巻別巻3巻にのぼる壮大な計画は,従来の研究者のライフスタイルを一新するのみならず,知的産物の客観化作業の冒険でもある。インターネットを通じたこの種の試みは,寡聞ではあるが,世界的にみても,日本においてもはじめてではないかと思われる。二村のページは,自己の知的営為の一環として独力での編集作業であること,1934年生まれという年齢,を考えると二重の意味で驚異である*10。
第2は,印刷メディアとデジタルメディアとの有機的結合のケース。野村一夫は SOCIUS (References for Beginners and Dilettanti in Sociology and Social Studies) と称するページにおいて,「社会学を学び始めたばかりの学生さんや,現代日本社会についてきちんと考えようとされる『見識ある市民』のみなさんのために,基本的な参考文献を紹介し,各テーマについて社会学がどう取り組んでいるかについて解説」しようとしている。野村は,自説をデジタルでの試論的展開と読者との応答を経て,印刷メディアでの集約をはかった。印刷メディア一辺倒のアカデミズムにあって,それだけではない表現のありようを追求した点において秀逸である。社会学の対象のひとつとしてインターネットがあるから,野村の趣味的フィールドと学術的フィールドとが初発から結合している面があるにせよ,草稿と完成稿との不断の応答をインターネットに見いだし実践している例は稀有である。もちろん,筆者は,野村のインターネットの社会学的考察にも注目している。
これらの試みは,既成のパラダイムへの挑戦という意味で注目されるケースである。市民の視点に立って,既成の価値概念を総点検せよ。インターネットの思想を徹底して市民化せよ。そう教えているように思われる。
にもかかわらずである。インターネットは参加者の問題意識次第でどうにでもなる。いままでのメディアが資本力に依存し,誰もが平等に参加できるものではなかった。インターネットはすくなくともこの点で決定的に異なる。つまり,その気があれば意味ある社会の一分子たりえるのだ。寄らば大樹の影も選択できる。何でもありの世界である。体制擁護のメディアになることも,市民的成長を遂げる場としてのメディアにもなることも可能だ。ここにインターネットの現実がある。
インターネットの商用利用と行政の上からの情報操作はますます進む。ファクス,ポケベル,携帯電話の使い方を教える学校がないのと同様に,パソコン,インターネットの使い方を教える場は必要ない時代が間違いなく到来する。それら道具であるかぎり,人間にたいして価値判断の基準を示さない(非・規範性),目的達成の手段であり(手段性),作業そのものへの没入(透明性)をもたなければならない*11。パソコン,インターネットを通じて何をなすかが問題であって,市民の市民的生活のコンテンツがまさに問われることになる。自覚的市民がどれだけ結集でき力ある「階級」に成長できるかどうかがいま問われている。
おわりに:Collaborationの易しさと難しさ
21世紀のサラリーマンは,仕事の場でもプライベートな場でも Collaboration (コラボレーション;協同・協働とも訳されるが定訳はいまのところない)が強調されるであろう。とりわけ最近認知科学分野ではこの言葉が頻出していることからもその注目度合いがわかる*12。深谷 (1998a) によれば,Collaboration が注目される社会的背景を以下のようにまとめている。(1)キャッチアップ型の成長が限界にきて,価値創出型社会が待望されていること,(2)現実社会が複雑化し,専門化・細分化された知識や技術では対応が難しくなっていること,(3)個性を重視した生き方が強く望まれていること*13。さらにそれ以上に重要なのは,ネットワーク時代の特性ともいうべき個人と全体(社会)との関わり方である。Collaboration が意味を持つのは,(1)個人が全体を創造すること,(2)個人が自立的な主体であること,(3)個人と全体は相互規定的であること,である。ジャズのジャム・セッションのようにある特定のテーマのもとに演奏者たちが即興的に演奏していくあのイメージである。たんなる共同ではなくCollaboration であるのはまさしく個人を前提にしながらも不確実性を多分にはらんでいるからである*14。インターネットを中核とする21世紀において Collaboration は組織のアクティブな発展を保障し,個人の全面的発達の契機をなすであろうことは間違いない。
しかし,Collaboration がようやく世間の注目を浴び,専門語として定着しても,いまだその概念や内容は確定されているとはいいがたい。逆に,Collaboration 自体が名実共に Collaboration に値する例は難しいともされる*15。この点ではオンラインコミュニティの構築はこれからの現実生活や21世紀市民の社会を展望するうえで参考になる。Amy Jo Kim は社会的相互作用 (Social Interaction) における設計原理を以下のようにまとめている*16。
(1)目的性。コミュニティの目的をはっきりさせておくことでメンバー内の軋轢や混乱を解きほぐす役割をはたす。もちろん目的はコミュニティの成熟とともに変化するが,明確にすることによって共有する磁場が形成され,コミュニティの発展に寄与する。
(2)拡張性。基本のプラットホームをもとに,コミュニティの成長に合わせてその場を拡張させる必要がある。さまざまなレベルのコミュニティが存在することによってコミュニティとの多面的な関係が構築可能となる。
(3)参加意識:プロフィール。コミュニティの核心は信頼感にある。メンバーが固定すればアイデンティティは容易に獲得されるが,新しい参加者がある時,メンバーのプロフィールが更新されれば参加意識とコミュニティへの貢献意識が形成される。
(4)役割性。参加するメンバーがコミュニティのなかでの位置が明確になっていること。
(5)指導性。参加者がリーダーシップを発揮できること。責任の所在を明確にすることでもある。
(6)礼儀。コミュニティのルールをはっきりさせ,許容できること,できないことを明示する。もちろんルールはコミュニティの発展とともに更新される。
(7)イベント。定期的な行事を開催することでコミュニティへの参加者意識と一体感が生まれる。
(8)慣習。コミュニティが長期間存続するかどうかは,コミュニティの目的や価値が不断に強化されているかによる。コミュニティ意識を高めるためにも必要である。
(9)グループ。コミュニティが大きくなれば,メンバー間の親密性や一体感は薄れがちとなる。安定したコミュニティになるためには,メンバーが一定帰属できるサブコミュニティを作る必要がある。
インターネットでは自己主張が可能である。また,インターネットという技術的特性によって最初から対等・平等である。この特性はいままでにないものであり,社会を変える可能性を与えてくれるものだ。ここで培われた個人の能力は,疑いもなく既成の組織・制度と抵触する。それらの多くはヒエラルキーであって,インターネットで育成されたコミュニケーションと異なる。インターネットで鍛えあげられ自己を確立した主体は早晩ヒエラルキー的組織物に敵対し,みずからの作法を普遍化することでしか存在しえない。
社会の矛盾を自覚し,問題化し,運動化していくプロセスにも変容をもたらす。マイノリティからの異議申し立て,辺境的な問題も,インターネット上に研究者が多数存在することによって,彼らの認知・承認を受けて一気に,加速度的に社会問題化できる。異議申し立て,問題提起者の苦悩や軋轢が,組織目標が先行することなく,社会問題を構築できる。すでに非政府組織の国際活動,平和運動,環境保護運動など先駆的事例に事欠かない。
インターネットは市民社会の構築に不可欠のメディアになりつつあるとはいえ,各種あるメディアのひとつにすぎない。肝心なことは,インターネットを通じて,「ひと」に問いかけ,得られた知識・情報を共有するコミュニティであることだ。「ひと」と「ひと」との無限の連鎖をつくりあげていくことが大事なのである。
インターネットの参画の目的が情報の提供の場合もあれば,データの交換の場合もあろう。しかし,これらは一過性のものであって,必要があればこその利用である。必要なことは,生身の人間の生き様,文化の交流であり,あらゆるインターネット神話を乗り越えて維持すべきコミュニティがこれである。肩書きも,社会的地位も無関係の一大(小さくてもいいのだが)コミュニティをインターネット上に構築すること。コミュニケーションを可能にするのは,まず「ひと」と「ひと」との文化的かかわりがあって,相互に共鳴し共感できる場合に,最新のメディアを媒介としてコミュニケーションが成立する。生きる現実の場での文化的実践活動が前提となることを確認したい。
文献
- 赤間道夫 (2000) 'Marxian economics', in Ikeo (ed.) (2000)
- 赤間道夫 (1999a) 「マルクス経済学――『講座』・『叢書』にみる軌跡――」,池尾 (1999) 所収
- 赤間道夫 (1999b) 「知的産物の客観作業の冒険――『二村一夫著作集』が意味するもの――」,『Academic Resource Guide』第37号 【再録:岡本真著『これからホームページをつくる研究者のために――ウェブから学術情報を発信する実践ガイド――』築地書館,2006年8月,再々録:akamac book review, 2007.2.16】
- 赤間道夫 (1998)「情報化社会と市民社会――「知性」の「連合」にむけて――」,八木他編 (1998) 所収【再録:akamac book review, 2007.2.14】
- 井関利明 (1998) 「ディジタル・メディア時代における『知の原理』を探る」,井上・梅垣編 (1998),所収
- 池尾愛子編 (1999) 『日本の経済学と経済学者――戦後の研究環境と政策形成――』(日本経済評論社), asin:4818810525
- Ikeo Aiko (ed.) (2000) Japanese Economics and Economists sicne 1945, Routledge, London and Newyork, asin:0415208041
- 伊藤守・花田達朗 (1999) 「『社会の情報化』の構造と論理――社会的諸力の葛藤のプロセスとしての情報化――」,児島編 (1999) 所収
- 井上輝夫・梅垣理郎編 (1998) 『メディアが変わる 知が変わる――ネットワーク環境と知のコラボレーション――』(有斐閣),asin:4641076073
- イワン・イリイチ (1989) 『コンヴィヴィアリティのための道具』(日本エディタースクール),asin:4888881480
- 植田一博・岡田猛編 (2000) 『協同の知を探る――創造的コラボレーションの認知科学――』(日本認知科学学会編認知科学の探究)(共立出版),asin:4320094360
- 植田一博 (1999) 「コミュニケーションを軸とした新しいシステム知のあり方」,情報処理学会編 (1999) 所収
- 上田修一 (2000) 「研究活動と電子メディア」,倉田編 (2000) 所収
- Gerhard Fischer (1999) 「グループには頭がない」,情報処理学会編 (1999) 所収
- Katherine Isbister (1999) 「サイバー空間での社会的インタラクションのための設計」,情報処理学会編 (1999) 所収
- 亀田達也 (2000) 「協同行為と相互作用――構造的視点による検討――」,植田・岡田編 (2000) 所収
- 亀田達也 (1999) 「協調行為をどう捉えるか――”相互作用”的視点と”相互依存構造”的視点――」,情報処理学会編 (1999) 所収
- 亀田達也 (1997) 『合議の知を求めて――グループの意志決定――』(日本認知科学会編認知科学モノグラフ3)(共立出版),asin:4320028538
- 楠房子・佐伯胖 (1999) 「意見が違うから,学び合える――非合意形成的協同学習支援システムの開発をめざして――」,情報処理学会編 (1999) 所収
- 倉田敬子編 (2000) 『電子メディアは研究を変えるのか』(勁草書房),asin:4326000260
- 児島和人編 (1999) 『講座社会学 8 社会情報』(東京大学出版局),asin:4130551086
- 佐伯胖 (1997) 『新・コンピュータと教育』(岩波新書),asin:400430508X
- 佐藤俊樹 (1996) 『ノイマンの夢・近代の欲望』(講談社),asin:406258087X
- 情報処理学会編 (1999) 「特集 ソーシャルインタラクション」(『情報処理』第40巻第6号)
- 須藤修 (1999) 「情報化と社会経済システムの変容」,児島編 (1999) 所収
- 西垣通 (1995) 『聖なるヴァーチャル・リアリティ――情報システム社会論――』(岩波書店),asin:4000044435
- 深谷昌弘 (1998a) 「未来を協同創出する試み――コラバレーションと人間コミュニケーション」,井上・梅垣編 (1998),所収
- 深谷昌弘 (1998b) 『<意味づけ論>の展開』(紀伊國屋書店),asin:4314008253
- Shrage, Michael (1990) Shared Minds: The New Technologies of Collabolation (藤田志郎監修・瀬谷重信ほか訳 (1992)『マインド・ネットワーク』プレジデント社),asin:4833414368
- 古瀬幸広・廣瀬克哉 (1996) 『インターネットが変える世界』(岩波新書),asin:4004304326
- 八木紀一郎・山田鋭夫・千賀重義・野沢敏治編 (1998) 『復権する市民社会論――新しいソシエタル・パラダイム――』(日本評論社),asin:4535551421
*1:筆者は,80年代後半から90年代前半における東欧諸国や旧ソビエト連邦の吸収・解体を,巷間流布されている資本主義の社会主義に対する勝利と見ていない。それなりに民主主義をそなえた体制が民主主義を欠いた体制に勝利したのであって,体制の違いを根底とする見方には与しない。インターネットを武器としたネットワークの威力が民主主義を実現する手段となったことは記憶に新しい。この点厳密な検証を要しよう。さしあたり,赤間(1998)を参照されたい。ちなみに,「管理する中心がないことでインターネットを市民社会と見なせるかなど,疑問はないわけではない。」(杉山光信の八木他編 (1998) への書評,『エコノミスト』1998年11月3日号,第76巻第48号,通巻3366号)は多分筆者稿を念頭においたものと思われる。
*2:以上については井関 (1998) に依拠した。
*3:刊行された各種『講座』・『叢書』を中心に日本のマルクス経済学の展開にそくして論じたことがある。赤間 (1999a) (2000) 参照。
*4:井関 (1998),20〜21ページ。
*5:イリイチ (1989),古瀬・廣瀬 (1996) 参照。
*6:井関 (1998),32〜36ページ。
*7:佐藤 (1996) 参照。
*8:もちろんインターネットの出現による現代的ネットワークの展開はこれにつきるものではない。「もともと,狭義の情報概念,つまり政治・経済・軍事などの社会的な諸活動に役立つ『実用的情報』という概念そのもののなかに,権力への意志が埋め込まれている。近代的な情報空間とは,第一義的には,政治的・経済的・軍事的な支配を達成するための場なのであり,そこで権力や利潤の追求がおこなわれるのは当然」( 西垣 (1995),172ページ)である。「近代的な情報空間」が現実の人間世界の反映であるかぎりは,なんら特別のそれではありえない。あくまで人間の思想や行為が他人によって共感され支持される度合いの差に着眼してのことである。民主主義か権力かという二項対立は「近代的な情報空間」で止揚されるわけではなく,むしろ増幅され複雑に絡み合っているいると見るのが正しいだろう。この点,伊藤・花田 (1999) は「社会的諸力の葛藤」として「情報化」を捉える試みをしており,有益な示唆をえた。
*9:一例を挙げよう。「市民のための丸山真男ホームページ」というページを作っている田中はこう書く。「インタ−ネットが本当に一人一人の市民生活にとって必要で有意義なものになるかどうかは,評論家や俗流社会学者たちの無責任なおしゃべりなどによってではなく,製作される一個一個のホ−ムペ−ジの品質何如にかかっているはずなのであり,ツールの向上やインフラの整備以上に,製作する個人の想像力と創造力次第ということになるのだろう。/しかしながら,日本の多くの研究者たちは,欧米の研究機関が苦労して構築した文献・資料デ−タベ−スに多くリンクを張ることが,ホ−ムペ−ジを作ることだと勘違いしているように見える。あるいは,自分勝手なおしゃべりのために,通信回線やハ−ドデイスクの資源を(貴重な文教予算の税金で)無駄使いすることが,インタ−ネットを『研究利用する』ことだと誤解してしまっているように見える。/そうではない。おそらくはそうではない。海外の研究機関からリンクを張ってもらえるホ−ムペ−ジを作ること,海外の研究者や一般の市民によって,ブラウザのブックマ−クに追加してもらえるホ−ムペ−ジを作ることこそが,本当の意味での『研究者のホ−ムペ−ジ作り』に他ならないはずである。」(Readers of All Lands Link ! から引用)。
*11:佐伯 (1997) 参照。
*12:Shrage (1990) ,植田・岡田編 (2000) ,情報処理学会編 (1999) ,亀田 (1997) ,深谷 (1998a) (1998b) などが代表である。
*14:深谷は「全体統制的でない,参加者の主体性・特性を活かす共同作業」を Collaboration と呼び,その産物を「コラボ財」としている。深谷 (1998b) 参照。
*15:亀田達也 (1997)(1999)(2000) ,楠・佐伯 (1999) など参照。
*16:Isbister (1999) による。