006「市民社会」論は深まったのか?

初出:基礎経済科学研究所『経済科学通信』第93号,2000年8月1日

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『経済科学通信』(以下,本誌と略)第92号(2000年4月)の特集「『市民社会』の周縁」に至る軌跡は,以下のようにみえる。
(1)本誌第80号(1996年2月)の特集「戦後50年を期に社会科学を再考し,未来を展望する研究集会」でのシンポジウム報告(とくに「戦後日本の社会科学と社会主義」)。
(2)『新世紀市民社会論』(大月書店,1999年1月)での一定の集約。

新世紀市民社会論―ポスト福祉国家政治への課題

新世紀市民社会論―ポスト福祉国家政治への課題

(3)本誌第91号(1999年12月)での特集「『市民社会』を問う」での,うえの出版物の討論を紹介し,「『市民社会』論の原理的・歴史展望的にとりあげた」(第92号「特集によせて」から)。
(4)本誌第92号での特集「『市民社会』の周縁」での,前号第91号をふまえての,「経済的地位・年齢・ジェンダー・身体的属性・文化・その他の諸条件によって相対的に自立が困難な状況下に置かれた人々の現状分析を通じて,現代日本における『市民社会』化の実相の探求を試み」(同上)たもの。
(1)の位置は必ずしも明確ではなく,(2)の出版以降の軌跡は鮮明である。(2)では3つの課題((1)新世紀市民社会への日本の課題,(2)企業活動の市民的監視,(3)新世紀市民社会への世界的課題)を設定した。(3)では「『市民社会』論について従来の論争をふまえた共同の議論を研究所内で積み重ねるという点で不十分さがあったことは事実」(第91号「特集によせて」から)であるとし,(3)と(4)に連続させる意図をもったものだからである。内容の当否は別としても(2)以降の編集方針は一貫している。
こうしてみると,この「誌面批評」も第91号と第92号で特集されている「市民社会」論へ,第92号での「周縁」へ,それぞれの言及が必要となろう。
まず,「市民社会」論について触れてみたい。第91号の特集は,うえで簡単に触れたように,『新世紀市民社会論』の提起を敷衍する側面と批判的見解の対峙がある。大西「日本型企業社会論と新世紀市民社会論」,神谷「サイド・エフェクトとしての市民社会化」は,『新世紀市民社会論』の書き手としての立場からのものである。大西は「市民社会」を「反国家の『市民革命』的課題」(17頁)とし,「新たな『市民革命』」(同)とする。「日本型企業社会を解体する課題」(同)と言明するかぎりにおいては,森岡「企業改革と市民」も同じ問題意識といっていいかもしれない。神谷が「彼ら(平田,丸山,内田芳明ら:引用者注)の夢想した市民社会が世紀転換期の今日,徐々に具体化しつつある」(28頁)とする認識,さらには「共生社会の入口」(29頁)との現状把握も――積極的な問題提起の意味ではこれとして議論する必要がある――,「市民社会」をこう捉えているのだという説明であろう。また,碓井市民社会国民国家,グローバリゼイション」は,「市民社会の原理が透明に貫徹するには,共産主義をまたなければならない」(23頁)とする一方,グローバル化の進行によって「トランス・ナショナルな市民社会」(26頁)としている点で,『新世紀市民社会論』および「市民社会」論にたいする独自の立場とみなせよう。中川「『新世紀市民社会論』とジェンダー」,山田「『不法滞在』外国人と市民社会」はいずれも『新世紀市民社会論』を一定肯定的に受けとめた論述である。
これに対して,高田「『市民社会』とは何なのか」,藤岡「国家に依存した日本型企業社会を解体する2つの道」,小林「市民運動にYes!『市民社会』論にNo!」は,いずれも『新世紀市民社会論』への懐疑および異論を提起している。高田が「これまでの社会科学では『乗り越えるべき市民社会』がいつも問題にされてきたような気がする。それが『目標とすべき市民社会』へと転換されたとき,その市民社会とは何なのか。壮大なる構想が生まれそうな気もするが,はたして新世紀にふさわしいものとなるかどうか,その体系は未完のまま」(48頁)と率直に疑問を提示している。藤岡,小林は,『新世紀市民社会論』への異論では同一の立場である。藤岡は「経済民主主義を土台にした『ハイ・ロード』の道をへて,賃金奴隷制の廃絶へと向かうのが,『真の市民社会』に至る道」(41頁)と結論づけながら,かつ「『地球市民』への発達経済学」を展望する。小林は,研究所編として『新世紀市民社会論』を出版したことにたいする「民主主義の問題」(44頁)を提起し,「現代民主主義の『全体構図』」(46頁)を描けないならば「市民社会」論と手を切るべきとする。「『市民社会』は虚偽意識」(46頁)の表現は小林の立場を示すものである。
『新世紀市民社会論』と第91号「特集」をみるかぎり,詰めなければならない論点は明確である。これまでの「市民社会」論をどう批判し,なにを継承するのか。「新世紀」市民社会を提起することによって生じた議論の集約点はこれにつきる。
第92号「特集」はここでまとめたものとは異なる。「現代日本における『市民社会』化の実相の探求」(既引用)だからである。この特集にそれ自体として応じたものが,奥山「部落の変化と問題解決の到達段階」,白井「今日における請負労働者の活用実態と問題点」,宮内「浮遊化・棄民化する若者と日本資本主義の今日」,高村「変化の中の中学校」,雪田「ドメスティック・バイオレンス問題の現状と課題」,中原「中国残留孤児と生活保護」,笠井「周縁から『市民』を問う在日朝鮮民族」である。まさしく現代の(あえて「市民社会」と使わない)「周縁」を扱い,それぞれに力作である。
横山「高齢者問題と『市民社会』論」と佐藤「市場の中の『弱い個人』」は,『新世紀市民社会論』と第91号を視野に入れながら,「市民社会」論を深めようとした総論的論稿になろう。横山論稿は,ふたつの特徴をもっている。ひとつに,「市民社会」論を整理し,「国家のみならず市場をも相対化する新しい社会関係をさす」(20頁)とまとめたこと(『新世紀市民社会論』は「市場を肯定的にとらえる」「特異」さをもつとする点では,藤岡の問題指摘に関わってくる)。ふたつに,「市民社会」論を市場コントロールの理論的ベースと再加工したうえで高齢者福祉問題を概括していること。また,佐藤も,「弱い個人」の論点に絞りながらも第91号での議論を共有しており,「特集」の内容にふさわしいものであろう。
「周縁」の問題を抉ったモノグラフィーは,「市民社会」論の提起とは直接結びつかない。むしろ「現代日本における『市民社会』化の実相の探求」(既引用)とのタイトルで「市民社会」論に含めるべきはない。すでに指摘したように,現代日本資本主義を「市民社会」と一括することへの是非が問題だからである。かつてすぐれて社会科学認識上の概念として使われてきた「市民社会」が,現代に生きるわれわれの眼前の現実を表現するだけだとしたら,そのように普通名詞化する共通の了解が必要であろう。
基礎経済科学研究所の出版物のタイトルに付される冠はこのところ「新世紀」,「地球市民」のように新機軸を狙っている。キャッチコピーとしては熟慮したことをうかがわせる一方,内容との関わりとそのようにまとめた共通認識のプロセスが伝わってこない弱点をもってはいないか。また,「市民社会」論のようにこれまでの議論にコメントしなければならないと思われる論点を未整理のまま継承しているようにも思われる。この点では,『新世紀市民社会論』の山口定の言及と第92号横山の整理以外にはないというのはいささか不満である。また,平田理論の現代的課題を追求した,八木・山田・千賀・野沢編『復権する市民社会論』(日本評論社,1998年8月,asin:4535551421*1に触れているのが横山だけというのはいかにも不十分である。
第91号「特集」では「各論者の論点はきわめて多岐にわたっている」(第91号「特集によせて」)のであろうか。もしそうだとしたら第92号ではその論点を深めることでなければならなかったはずである。「市民社会論争を日本の現実に根ざしてより高い次元に発展させてゆく」(第92号「特集によせて」)ためには実は「周縁」を取り上げることではなかったように思えてならない。