472緑川洋一の写真作品「石灰工場の人々」のこと

昨日の MBA の不調はなんだったのか。今朝スイッチを入れるとなんの問題もない。
広瀬就久(岡山県立美術館学芸員)「光の写真家  秘した熱情――緑川洋一が瀬戸内の人々を凝視した初期作品紹介――」(日経新聞,2011年11月18日付)を興味深く読んだ。そこには緑川洋一の作品「石灰工場の人々」(1954年)があり,「粗末な建物を背景に,目の穴だけが開いた紙袋をかぶった2人の男が立つ不気味な光景を写したのは,「石灰工場の人々」。舞台は,終戦愛媛県の明浜(現西予市)にあった石灰工場だ。ふんどし姿で立つ2人は石灰の粉じんにまみれている」。「男たちはタオルなどで鼻や口をふさいでおり,2人がかぶった妙な紙袋が石灰の粉じんよけのものであった」。
その写真は作品集『白い村――ある石灰工場の記録――』からのもので,ネットでも確認できる(「JCIIフォトサロン」→http://www.jcii-cameramuseum.jp/photosalon/photo-exhibition/2007/20070828.htmlあるいは「日本写真保存センター」→http://www.jps.gr.jp/center/main_content/researched/photographer/midorikawa/midorikawa.html)。
緑川が撮った明浜の石灰工場は現在窯跡や積出し場跡として見ることができる(「ふらりぶらりの旅日記」→http://ta-ma.iza.ne.jp/blog/entry/2343517/)。石灰工場は当時「灰屋」と呼ばれ,明治末の最盛期には80軒以上あったそうだ。石灰石から生石灰を生成する時の熱を利用した焼き芋が「白い焼き芋」(灰屋芋)だ。「高山は良質の石灰岩が分布していることから,(幕末から第2次世界大戦まで)石灰業で繁栄し,採石・石灰焼成工場の労働者として南予各地から人が集まり,それに関連して海運業・商業も大いに進展した」(愛媛県生涯学習センター「「えひめの記憶」 - [『ふるさと愛媛学』調査報告書]」→http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=1&P_SNO=2&P_FLG1=3&P_FLG2=2&P_FLG3=2&P_FLG4=1)。また,明浜町の俵津(たわらず)・狩浜(かりはま)は養蚕や家内工業としての機織が盛んで,また明治以降の繊維産業の発展もあって,反物の行商の中心地だったという。この記事をもとに,明浜にいたことがあるという同僚の話からも,石灰工場と行商のことを聞いた。
宇都宮健児・日本弁護士連合会会長はたしか東宇和郡高山村(現西予市明浜町)田之浜の生まれだ(のちに一家で大分県国東半島に開拓入植)。