775松尾匡著『新しい左翼入門――相克の運動史は超えられるか――』

書誌情報:講談社現代新書(2167),259頁,本体価格800円,2012年7月20日発行

新しい左翼入門―相克の運動史は超えられるか (講談社現代新書)

新しい左翼入門―相克の運動史は超えられるか (講談社現代新書)

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世の中を変えることを目指す日本の運動に宿痾に苦しむ対立があるという。「獅子の時代」の架空の主人公苅谷嘉顕(よしあき)と平沼銑次(せんじ)に擬えた「嘉顕の道」――「理想や理論を抱いて,それに合わない現状を変えようとする道」――と「銑次の道」――抑圧された大衆の中に身をおいて,「このやろー!」と立ち上がる道」――の対立である。この二つの道の相克史を戦前と戦後に分けて振り返り,これを乗り越えた地平に社会変革を展望しようというのだ。
明治期のキリスト教社会主義アナルコ・サンジカリズム,大正期のアナ・ボル論争,福本・山川イズム,日本主義論争,日本共産党社会党左派,丸山眞男竹内好,これらを二つの道と絡ませ,日本社会主義運動史を総括し,「市民の自主的事業の拡大」の先に社会変革を見ようという試みである。
あるひとつの視点から歴史を分析するのは当然あってしかるべきだし,「二つの道」の対立として描く本書の構想それ自体はまちがってはいない。しかし,その時々の現実を理論化しようという先人たちの努力にたいしてその理論としての(相対的に)妥当性を突きつめることなしに,いろんな考え方があるよとばかりに,組織論や政党論に収束させてしまう叙述には違和感をもつ。
われわれが語る思想や理論とはそれを語る瞬間から「現場の個々人の暮らしや労働の事情から遊離」(211ページ)するのは当然ではないか――これは「暮らしの欲求や都合から切り離された宙空法則」(241ページ)ではけっしてない。問題なのはそれら思想や理論が現状を何とかしたいと思っている人の生きる力と希望になるかどうかである。かたや「嘉顕の道」は「上からの押しつけが生身の個々人への抑圧になって失敗」(171ページ)し,「銑次の道」も「現場の視野が内向きになって外部に配慮を欠いたり,小ボスの利権と支配が発生したりする」(同上)のはそもそも思想と理論の問題ではない。
組織論として「嘉顕の道」と「銑次の道」とを行きつ戻りつ「幅広い人々の合意で運営される社会関係」(231ページ)を作り,「毎日の地道な仕事にはげむ」(249ページ)先にしか将来は見えてこない。この意味での二つの道論はまったく正しいと思う。
普通の市民に未来を開く種は身の回りにしかないことを説くことが脱思想・脱理論に繋がってしまっていると読めたとしたら誤読であろうか。