283秋道智彌著『クジラは誰のものか』

書誌情報:ちくま新書(760),231頁,本体価格740円,2009年1月10日発行

クジラは誰のものか (ちくま新書)

クジラは誰のものか (ちくま新書)

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日経の文化欄に東京で電気工事業を営む細田徹さんの「クジラグッズにおぼれて」(2009年1月14日付)があった。書籍・雑誌で5,000冊以上,切手3,000種,コイン200種,おもちゃ,捕鯨用具などクジラにかんするものならなんでもコレクションしているそうだ。本書も細田さんの新しいコレクションに加わったことだろう。
評者のこども時代のタンパク源は鯨肉だった。おかげで眉目秀麗の少年に育った(?)。肉といえば鯨で,弁当のおかずは来る日も来る日も鯨の照り焼きだった記憶がある。さもあらん商業捕鯨が盛んでとても安く供給された時代だったからである。いま捕鯨論争で日本が矢面に立つのは鯨をとりまくったいう比較的近代の,人々の記憶に新しい負の歴史を持っているからだ。「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう。」と言ったのはブリアーサヴァラン(『美味礼賛』)。20年前の1988年に商業捕鯨が禁止されて以来,めったに口にする機会がない。鯨を口にしなくなって,さて評者はどんな人間になったのか。
スミスの時代,鯨はもっとも重要な商品だった。それというのも,重商主義政策のなかでの最重要商品(ステープル商品)だったからである。近世初頭からスミスの時代ころまでに,ヨーロッパは鯨から照明用灯油,石鹸,グリース等の原料としての鯨油,竜涎香(本書75ページに太地町立くじらの博物館所蔵の写真が掲載されている)など種々の製品をつくっていた。なかでも軽くてしなやかで,丈夫な髭,ひれの最大の用途は婦人用お洒落用品であるコルセットとクリノリン(釣鐘のようなフープ・スカート)のタガだった。
中公版『国富論』には詳しい注釈がついている。鯨のひれ whale fin という用語は,いわゆる「ひれ」ではなく,この髭,あるいは,ひげ板の商品名に他ならない。商品とするには,ひげ板を切り落とし,縁毛を除いて洗い,これを半日煮て柔らかにする。あとは用途に応じて細長く,あるいは糸状に裁断する。もっとも良質なのはグリーンランド近海でとれるホッキョククジラのもので,しなやかなうえに,ひげ板の長さは時に3.5メートルにも達する。ナガスクジラのものは,固く短いため下級品として扱われた。鯨のひれ,髭とは,セミクジラ,ナガスクジラ,ホッキョククジラ,イワシクジラ等をふくむヒゲクジラ亜目に属する鯨の髭,あるいは,ひげ板 balleen である。ヒゲクジラ類の口蓋には,三角板状で角質のひげ板が列を成して生え下っており,各ひげ板の内側は先がほぐれてほうきかブラシのようになっている。口蓋の片側列のみで,ひげ板の数が400に達する種類もある。大型魚を肉食するハクジラ類と異なり,プランクトン食性のヒゲクジラ類は,いったん大量の海水とともにオキアミ,小魚等を口中に吸い込み,このひげをいわばふるい,あるいはストレイナーに用い,舌を使って海水のみをはき出す。
アメリカのペリーが日本に開国を迫ったのは捕鯨船の食料・燃料補給のためだったことからもわかるように,欧米でも捕鯨が盛んだった。日本では食用以外に,文楽の人形やいまは使われなくなった「鯨尺」に使われた。テニスラケットのガットも鯨のひれだった。
前置きが長くなった。ことほどさように,国際捕鯨委員会IWC)――ちなみに,2008年に設立60年をむかえた――で論点になっている先住民生存捕鯨を認め,商業捕鯨を禁止するという議論は,いかに単純化したものであるかの一端を示す。筆者は,鯨は誰のものかと問題を提起し,生物と文化の多様性,至言とコモンズ論,鯨の生態史と人間の交渉史,鯨論争の特徴,循環と共存,を検討している。
地球上に現存するすべての鯨・イルカ類が絶滅危惧の状態にあるのではないことである。急激に増え,餌生物の競合関係にある場合もある。
さきに触れた「鯨尺」に関係して,六尺ふんどしや三尺帯の尺はこの鯨尺換算で,六尺ふんどしは1.8メートルではなく,2.3メートルだそうだ。今治タオルの織機の荿(おさ)の数は鯨尺一寸当たりの本数をもとに決める。
日本の捕鯨技術は,明治以降の外国からの技術導入まで,世界でもっとも多様な捕鯨技術をもっている。
商業捕鯨は禁止されているが,IWCの枠組に入らない捕鯨が農水大臣の許可漁業として現在でも営まれている。その割合が決まっており,北海道網走市(ツチクジラ2頭),宮城県石巻市鮎川(ツチクジラ26頭,ゴンドウクジラ50頭),千葉県南房総市和田(ツチクジラ26頭,マゴンドウクジラ50頭),和歌山県太地町マゴンドウクジラ50頭,ハナゴンドウ20頭)となっている。小型沿岸捕鯨とはいえ,原住民生存捕鯨商業捕鯨ともオーバーラップする捕鯨ということになる。
ベトナム戦争中,ベトコン殺戮作戦の訓練でメコン川のカワゴンドウが大量に殺戮された。この事実はほとんど語られてはいない。
日本の調査捕鯨は致死的手段で1,000頭を殺す。非致死的手段はないのか,あるいは鯨・イルカや環境で進む汚染問題が視野に入っているのかなども示唆に富む。
捕鯨していた欧米諸国が捕鯨をしなくなったのは,鯨への愛情が芽生え,環境問題の大事さに気づいたからではない。石油の発見によって鯨油の必要性がなくなったからだ。「野生動物か家畜かを問わず,人間は生き物を殺める屠刹行為を有史以来,飽くことなく続けてきた」(108ページ)。鯨とどう向き合うべきか。鯨本として最新の,良質の本といえよう。
かつて読んだ鯨本では,福本和夫『日本捕鯨史話――鯨組マニュファクチュアの史的考察を中心に――』(法政大学出版局,1993年,isbn:9784588050831)は,寄り鯨利用時代,突き取り捕鯨時代,網取り捕鯨時代,ノルウェー捕鯨時代,母船式捕鯨時代に区分した代表的な捕鯨技術史だ。大隈清治著『クジラと日本人』(岩波書店,2003年,isbn:9784004308356)や星川淳『日本人はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』(幻冬舎新書,2007年,isbn:9784344980310)は比較的最近のもの。小説では檀一雄『海の竜巻』(土佐の鯨漁師がアメリカの捕鯨船で活躍する),村山知義『忍びの者』(霧隠才蔵は突き取りの名手。ただし導入のみ。これは岩波現代文庫に入っている。才蔵は第3巻でとくに活躍する。)も鯨と深くかかわっている。