331北海道・蜂須賀農場の小作人

北海道上空知地方(現在の雨竜町妹背牛町など1市4町にまたがる)に蜂須賀農場があった。1893(明治26)年に開設され,戦後の農地改革で歴史を閉じた。6千町歩(約6,000ヘクタール)あった。大きさとともに1920(大正9)年に始まる小作争議でも知られている。
蜂須賀農場で祖父母の代から小作人だったという橋本とおるさんが「小作農生活 根堀り葉堀り――厳しい家計・農場との争議 収穫多き父祖の資料――」(日経新聞,2010年6月3日付け)を寄稿していた。祖父母の代からの税や小作料の領収書をもとに小作農の実態を紹介している。転出した小作人の未納小作料を引き受けたこと,自家用醤油税や自転車税もとられたこと,水田小作料が1反歩(約10アール)あたり玄米5斗(収穫の約3割)から農地の格付けをして5斗5升になったことなどである。小作争議は「今後は一方的な値上げは行わない」ことで落着したことになっているが,5斗から5斗5升への実質的引き上げという結果だった。
戦前の北海道農業は,「日本農業における四つの地帯,四つの型」(山田盛太郎『日本資本主義分析』岩波文庫,244ページ)のひとつとされ,「北海道土地払下規則(明治十九年),同,国有未開地処分法(同三十年)を通じて創設せられた半隷農制的寄生的大農場組織を特徴とする北海道の型」(同上)とされた(ほかに,東北型,近畿型,植民地朝鮮型)。山田は,34%の地租(公課)と68%の地代という「二層の従属規定」を指摘し,かつ前者は一定額の貨幣,後者は一定量(または一定の歩合)の現物(米)であり,そこに「ミゼラブルな日本農業における地代の現物形態」(259ページ)を見たのだった。戦前期日本にあってはさらに「一層,原始的な形態」である「徭役労働=労働地代」(「作り子,名子,被官百姓,幕人制度」という「隷農制的=半隷農制的従属関係」(260ページ))があった。
蜂須賀農場の源流は旧華族6人が創設した「組合雨竜農場」で,個別経営に移行したときに関わったのが阿波徳島藩の最後の藩主蜂須賀茂韶(もちあき)。蜂須賀茂韶といえば明治天皇前での煙草失敬だけが人口に膾炙してしまっている。橋本さんはすでに「雨竜原野」と「御農場」を自費出版されているという。「庶民のミクロな資料」は貴重な証言だ。