008竹内洋著『大学という病――東大紛擾と教授群像――』

akamac2007-03-05

書誌情報:中央公論新社(中公叢書),294頁,本体価格1,800円,2001年10月10日

大学という病―東大紛擾と教授群像 (中公叢書)

大学という病―東大紛擾と教授群像 (中公叢書)

初出:メールマガジン『日本国の研究 不安との訣別/再生のカルテ』,2002年2月1日発行,第130号

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大学問題の昔と今――大学の病とはなにか?
近代日本史や大学史においてよく取り上げられる「騒擾」として,昭和初期の東京帝国大学経済学部を舞台とした大森義太郎辞職事件や河合栄治郎の著書発禁処分・辞職(いわゆる「平賀粛学」)がある。暗い時代における象徴的事件として,軍国主義がはびこった時代における大学自治と学問の自由にたいする抑圧の受難として,それはたしかに座視しえない事件である。著者は,これを「近代日本の大学史研究の中では必ずふれられる定番のテーマ」・「大学版忠臣蔵」(「あとがき」)とよび,たんに受難=復帰・復権の歴史としてではなく,あくまでこれらをケース・ヒストリーとして60年代末から70年代はじめにかけての大学「闘争」まで時間軸を延長することによって,大学病の源泉を見てとろうとしている。また,ひとりの受難者であった大森義太郎を主人公に据えることによって,同様に大学の存在意義をあらためて問おうとしている。
副題「東大紛擾と教授群像」に示されるように,登場人物と当時の世相を縦横に交錯させ描写することによって大学史の歴史的検証として評価できる(「1 昭和3年四月十七日、安田講堂」,「3 俸給と稿料」)。また,「紛擾」の複雑な人間模様と帝大内部・(当時の)文部省のかかわりを資料と証言から分析している個所は客観的である(「6 河合栄治郎学部長の光と影」,「7 河合の孤立と大森の困窮」,「8 帝大粛正のミステリー」)。しかし,これらは本書を貫く太い糸ではあっても,あくまで舞台でしかない。本書の視線は,病巣の発見に向けられる。
大学の「宿痾(しゅくあ)」あるいは「病」とはなんであろうか。そしてそれにたいしていかなる治療があるのだろうか。
著者の問題意識ははっきりしているし,病巣を発見する目は確かである。いま大学改革論議が盛んだが,すでに昭和初期に大学不信や大学解体論として展開されており,目新しいことではない。そしていまにみる大学の諸問題は,大学の病理としてすでに内包されていた,と。本書でエピソードとしてふれられている「一ノート(で)二〇年」つまり二〇年間もまったく同じノートで講義をする東京帝国大学教授,大学外の仕事で多忙なためおびただしい休講(休講率73パーセントの教授もいた!)(これらは「2 黄色いノートと退屈な授業」に詳しい),あるいは『中央公論』や『改造』を代表とする総合雑誌を媒介にしたジャーナリズムの浸透とそれらに寄稿することによる「講壇ジャーナリスト」の誕生(「4 消費される大学教授),人間関係の濃淡によって形成されるクリークからはじまる多数派と少数派,左翼と右翼にいたる派閥(「5 繁殖する派閥菌」)などがそれである。そしてこれらについて一般的に,著者によって大学神話とその解体としてまとめることで説明されている。大学神話とは「大学が社会にとって不可欠で重要な機能をはたす制度であるといる信頼性」(256ページ)であり,その神話をくつがえす契機があった。ひとつは,国家主義の台頭,ふたつに,ジャーナリズムというメディアの登場,みっつに,アカデミック・ゴシップの氾濫,である。
著者の大学病にたいする処方箋はどうか。社会学ピエール・ブルデューの分析装置をちりばめながら論じているが,それは実質上,死亡宣告がすでになされたという主張であり,そこから読者が適切な治療を望むことはできない。すでに本書が問題としている昭和初期の段階で大学は危機をはらんでいたにもかかわらず,おりからの戦時体制によって強制的に外部から死亡宣告をうけた。大学が自省することなく,かえって戦後にいたってふたたび大学神話を輝かせた。しかし,全共闘運動によって最後通牒が突きつけられ,そのとき大学神話は息の根をとめられた。したがって,大学の再生や知の回復などということはありえない。待っているのは「陰鬱なニヒリズム」(271ページ)しかない。著者のべつな言葉を借りれば,「大学改革の中に大学という病」(272ページ)がしのびこんでいるというわけである。
はたして本書は「大学問題を考えるケース・ストーリー」になりえるのだろうか。「大学改革とは大学的なるものを剔抉(てっけつ)し,対決すること」(276ページ)。大学病は戦前期からあった。これは著者の発見であろう。だが,その病は大学神話の解体で往生をとげたのではなかったか。現在の大学が医療技術の粋を集めてひたすら延命治療をしているだけだとしたら,そこには大学の未来の芽すら存在しない。知の場としてはたしかに現在は「大学的なるもの」にかぎられてはいない。しかし,著者の描く大学像がいかなるものであるかは本書を読むかぎりでははっきりしない。すくなくとも本書に憂鬱な未来しか感じない。いやむしろ著者は,大学を否定的に描くことで,「大学的なるもの」を徹底して相対化する姿勢を鮮明にしたというべきなのかもしれない。