030アダム・スミス略年譜

略年譜といっても項目によって作成者の意図が反映される。本年譜はスミスの生涯に焦点を当てたもの。また,十分ではないものの産業革命前夜の経済学者であることを示すことを心がけた(井野川潔の「技術の歴史」シリーズは,子供向けながら大人でも楽しめるいい本だ。アークライト(asin:4874524001),ワット(asin:487452401X),スチブンソン(asin:4874524028),クルップasin:4874524036),アインシュタインasin:4874524044)参照)。本略年譜の種本は,水田洋『アダム・スミス――自由主義とは何か――』(講談社学術文庫,1997年5月,asin:4061592807)。水田は地名や人名表記およびひらがな表記にこだわりがあり,本略年譜作成にあたっては水田の用法にしたがってはいない。講義資料のブログ版であり,適宜情報を付加して活用して欲しい。

西暦 生涯 関連事項
1723 スコットランドのカーコーディに生まれる。6月5日洗礼。
1726 スロラセンリ城の近くで遊んでいて,放浪者にさらわれたが,まもなく救出。
1732 カーコーディの町立学校に入学。
- - 1733 ヴォルテール『イギリスだより』。ジョン・ケイ,飛び杼 (flying shuttle) *1を発明。
- - 1735 ダービー(子),石炭をコークス化して鉄鉱溶解に成功。
1737 11月,グラスゴー大学に入学。 1737 ヒューム『人間本性論』(匿名)を刊行。
1740 マスター・オブ・アーツ(人文学修士)の学位を得て,グラスゴー大学を卒業。スネル奨学資金の23人目の給費生としてオクスフォードのベリオル・カレッジ入学のため,6月に,馬でグラスゴーを出発。7月7日,ベリオル・カレッジに入学。 1740 ハンツマン,良質な鋼鉄の精錬に成功。
1744 オクスフォードでバチェラ・オブ・アーツ(人文学士)の学位を取る。
- - 1745 ジャコバイトの反乱。
1746 8月15日頃,ベリオルを出てカーコーディに帰り,戻らない。
1748 この年から51年にかけて,三冬,エディンバラで公開講義をおこなう。亡命詩人ハミルトンの詩集に匿名で序文を書く。
1749 異母兄ヒュウの死により,遺産を相続。
1750 このころヒュームとの交友が始まる。
1751 1月,グラスゴー大学論理学教授に就任。1月に就任講演をラテン語でおこなったまま,エディンバラにとどまり,開講は10月。道徳哲学教授クレイギーの病気により,その講義をも担当。 1751 『百科全書』の刊行開始。
1752 クレイギー病死。スミスは道徳哲学講座への転任をのぞみ,4月に反対者なしに許可。スミスは論理学講座の後任として,ヒュームをまねくことに努力し,ヒュームもそれをのぞんだが,「無神論者」ヒュームにたいする学外の反対のため実現しない。エディンバラ哲学協会が復活し,会員に推薦される。グラスゴー文学クラブに参加。
1754 エディンバラ選良協会が設立され,スミスはそれを積極的に推進。
- - 1755 ルソー『人間不平等起源論』
- - 1756 7年戦争(英・仏の植民地争奪戦)
1759 4月はじめ,最初の著作『道徳感情論 The Theory of Moral Sentiments』出版。フランクリン,スコットランドを訪れ,エディンバラで(たぶんグラスゴー大学でも)スミスと会談。この夏,タウンゼントと会いバックルー侯の家庭教師になることを約束。
1760 人文学部長となる。
1761 道徳感情論』第2版。「言語起源論」を『文献学論集』第1号に発表。校務(大学の会計事務の処理)で,はじめてロンドンに行く。 1761 ルソー『社会契約論』
1762 グラスゴー市民権を取得(5月3日)。グラスゴー大学から法学博士の学位を授与される(10月)。副総長となる。出納官,学部長とともに,3つの職務を兼ねる。この学年に修辞学・文学講義をおこなったことがのちに確認される(他の学年については不明)。エディンバラの国民義勇兵創設運動のための「ポーカー・クラブ」設立に関与,1774年までその会員。
1763 このころ,いわゆる「国富論の初期の草稿」を書く(スコットは,タウンゼントに送るために書いたと推定,ミークは,講義ノートの一部を書き直したものと推定)。タウンゼントは,10月25日付けのスミス宛の手紙で,バックルー侯の外国旅行の時期が近づいたことを知らせ,旅行付き添い教師になるという約束の実行をもとめる。11月8日に,大学に辞意を伝える。
1764 1月末か二月始め,バックルー侯とともに,フランス旅行に出発。2月13日,パリ到着(翌14日,大学へ辞表を発送)。2月14日,パリを出発,3月4日,トゥルーズに到着。『道徳感情論』のフランス語訳出版。 1764 ハーグリヴズ,ジェニー紡績機 (Spinning Jenny) *2
1765 10月,トゥルーズ発マルセイユを通ってジュネーブに着く。11,12月の約2ヶ月滞在。ヴォルテールに会う。 1765 ワット,蒸気機関の改良に成功。
1766 1月〜10月,パリ滞在中,ヒュームの紹介とスミス自身の名声により,パリ社交界の花形となる。ドルパック,エルヴェシウスなどのサロンに出席。10月,パリを出発して帰国。
1767 ひきつづき5月までロンドンに滞在し,『道徳感情論』第3版の校正と,第2の著作(『国富論』)のための研究をする。5月21日,ロンドン王立協会の会員に推薦される。5月,バックルー侯の結婚とともに,故郷カーコーディに帰り,以後,『国富論』のための研究に専念する。『道徳感情論』第3版に,「言語起源論」を付録として収録。
- - 1769 アークライト,水力紡績機 (water-frame) *3
1770 道徳感情論』ドイツ語訳出版。エディンバラの市民権を与えられる(6月)。
1772 東インド会社の特別委員会の委員に推薦されたが,委員会設置案は議会で否決。ハミルトン侯やチェスタフィールド伯の家庭教師としてスミスをむかえようとする計画もあったが,やはり実現しない。このころ,研究による過労のため健康をそこなう。
1773 4月,ほぼ完成した『国富論』の草稿を携えてロンドンに行く。出発にあたり,親友ヒュームを著作にかんする遺言執行人に指名。4月16日エディンバラを通過する時,書面をもって,未完の草稿の処分についてヒュームに依頼する。5月,ロンドンで,1767年に会員に推薦された王立協会に入会する。この年から1776年までロンドンで『国富論』の仕上げに従事。ジョンソンの文学クラブに加入する。
1774 道徳感情論』第4版出版。『道徳感情論』の新しいフランス語訳出版。
1776 3月9日,『国富論 An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations』第1版,ロンドンのストラハン・キャデル書店から,四折版2巻合計1097ページの大冊として発行される。初版約1000部,半年で売り切れる。5月頃カーコーディに帰る。8月,エディンバラにヒュームを見舞う(8月25日死亡)。11月,ヒュームの最後について,ロンドンの出版業者ストラハンに送った手紙(『スコッツ・マガジン』1777年1月号掲載)が宗教界の激しい攻撃をまねき,ホーン(オクスフォード,モードリアン・カレッジの寮長)によって無神論者として攻撃される。スミスはこの非難を黙殺。『国富論』のドイツ語訳第1巻出版(第2巻は1778年)。 1776 アメリカ独立宣言。
1777 1月上旬,『国富論』の再版のためにロンドンに行く。5月には文学クラブに出席。
1778 1月,スコットランド関税委員に任命される。2月,『国富論』第2版出版。エディンバラに居を定める。この年,母方のいとこの子ダグラスを嗣子とする。化学者ブラック,地質学者ハットンとともにオイスター・クラブをつくる。2月,アメリカ問題についての「おぼえがき」。この年から翌年にかけて,『国富論』フランス語訳出版。
1779 秋,アイルランド自由貿易問題について,カーライル伯およびダンダスより意見をもとめられる。11月,両者への書簡で,輸出入ともにアイルランドにイギリス本国と同等の自由を与えるのが良策であると答える。この年から翌年にかけて,『国富論』のデンマーク語訳出版。 1779 クロンプトン,走錘紡績機 (mule) *4
1780 国富論』イタリア語訳出版。
1781 6月4日,エディンバラ市警備隊名誉隊長となる。『道徳感情論』第5版出版。
1782 国富論』第3版の増補のため東インド会社の歴史を研究する。ロンドンに数ヵ月滞在。
1783 国富論』増補の部分を別冊として出版する。ロバートソンなどと協力して,スコットランド文化の発展を助長する目的で,エディンバラ王立協会を設立。11月,フォックス,下院において『国富論』をひいて自由主義を論じる。
1784 国富論』第3版出版。この版では,かなりの増補が,とくに第4,5篇に加えられている。4月,バークの訪問を受け,ローダデール卿とともに彼を歓迎,彼のグラスゴー大学名誉総長任命式に出席。5月23日,母,90歳でその生涯を終える。
- - 1785 カートライト,力織機 (power-loom) 。
1786 国富論』第4版出版。この年より翌年にかけての冬,慢性腸疾患に苦しむ。
1787 4月18日,ダンダスの招きと,聖ジョージ病院外科医ハンターの診察を受けるために,エディンバラからロンドンに行く。このロンドン行にさいしても,ブラックとハットンを遺言執行人として,遺稿の処理を依頼する。ロンドンにおいて,ピットの委嘱を受け,政務記録を調査する。7月,膀胱炎を病む。秋に帰国する。11月,母校グラスゴー大学の名誉総長に選出され,12月12日に就任する。
1788 11月,グラスゴー大学の名誉総長に再選される。この冬,再び健康を害する。
1789 道徳感情論』第6版の準備をすすめる。 1789 アメリカ合衆国政府が成立して,ワシントンが初代大統領となる。フランス革命がはじまる。
1790 道徳感情論』第6版出版。かなりの増補と削除がおこなわれ,はじめて2冊本となる。3月,病気が悪化する。暖かくなって一時小康をえるが,6月にはまた悪化する。7月11日,スミスの懇請によって,未定稿が消却される。7月17日,死去(67歳)。
- - 1793 ホイットニー,綿繰り機

【日本における『国富論』翻訳史については本ブログ「『国富論』翻訳略史(戦前編)」(http://d.hatena.ne.jp/akamac/20070329/1175156485)および「『国富論』翻訳略史(戦後編)」(http://d.hatena.ne.jp/akamac/20070330/1175261280)を参照ください。】

*1:→図などhttp://www.saburchill.com/history/chapters/IR/009.htmlhttp://www.spartacus.schoolnet.co.uk/TEXflying.htm

*2:Jenny は娘の名前。→「技術史千一夜物語」(http://www.ne.jp/asahi/okuyama/techis/1001/Hargreaves.html

*3:もともとトーマス・ハイズという職人が発明したが,さきに特許をとったアークライトにプライオリティーがあるとされた。のちに裁判で敗訴するもサー・リチャード・アークライトになっていた。→「技術史千一夜物語」(http://www.ne.jp/asahi/okuyama/techis/1001/Arkwright-1.html

*4:muleは♂ロバと♀馬から生まれたラバの意味。ハーグリーヴズとアークライトの紡績機を改良したところから付けられた。→「技術史千一夜物語」(http://www.ne.jp/asahi/okuyama/techis/1001/crompton.html