119熊谷徹著『顔のない男――東ドイツ最強スパイの栄光と挫折――』

書誌情報:新潮社,221頁,本体価格1,300円,2007年8月25日

顔のない男―東ドイツ最強スパイの栄光と挫折

顔のない男―東ドイツ最強スパイの栄光と挫折

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前著『びっくり先進国ドイツ』(新潮社,2004年7月25日,asin:4104171034;文庫版,asin:4101322325。ほかにもドイツ物が数冊あるが評者は未読)とはうってかわってシリアスなスパイ物語だ。旧東ドイツはスパイ大国と呼ばれた。本書の主人公マルクス・ヴォルフ (Markus Wolf, 1923-2006) は,1952年以来20年以上もヴォルフの顔を特定することができなかった(本書のタイトルのゆえん)。この凄腕スパイ・マイスターは,悪名高い国家保安省 (シュタージ STASI: Ministerium für STAatsSIcherheit) の下におかれた東ドイツの対外諜報機関 HVA (HauptVerwaltung Aufklärung) を34年間にわたって率いた。冷戦さなかの1970年代はじめ,西ドイツのブラント首相のギョーム補佐官は,ヴォルフが仕立てたスパイだ。西ドイツで摘発され,「ギョーム事件」として歴史に名を残している。
尾行時の仲間への連絡はボディランゲージによっておこなう。以下の仕草に出くわしたら注意したほうがいい。尾行されているかもしれない。

  1. 手かちり紙で鼻を押さえる→「尾行の対象が現れた」
  2. 頭髪をなでるか,帽子を取る→「対象が歩き始めたので,尾行する」
  3. 手を背中か,腹に置く→「対象が立ち止まった」
  4. 靴の紐を結び直す→「対象に見破られないように,私は尾行役から外れる」
  5. カバンを開けて手探りする→「尾行班長か,他の尾行役と話したい」

シュタージがいかに陰湿に監視し,弾圧したかは,映画「善き人のためのソナタ」が詳しい(「グッバイ,レーニン」もベルリンの壁崩壊前後を描いた佳作)。ベルリンの壁が崩壊した1989年時点で,シュタージの正職員は9万1千人。東ドイツ市民180人に対し1人の割合になる。これ以外に非公然職員 IM (inoffizielle Mitarbeiter) が17万4千人いたという。秘密警察が暗躍する国家は,国民生活の監視社会でもあったことになる。
著者は秘密警察は非とし,しかしスパイは是とする立場だ。「人間が人間から直接情報を取るヒューマン・インテリジェンスが諜報活動の基本」であり,「国家にとって優秀な諜報機関が不可欠」(206-207ページ)であり,「日本政府も国益を守るために,本格的な対外諜報機関を創設するべき」(211ページ)という。国家体制維持に結局は失敗した「東」の経験を学べということなのだ。