初出:Academic Resourse Guide【ブログ版】,第37号,1999年8月5日
再録:岡本真著『これからホームページをつくる研究者のために――ウェブから学術情報を発信する実践ガイド――』築地書館,2006年8月10日,x+274頁,本体価格2,800円
これからホームページをつくる研究者のために―ウェブから学術情報を発信する実践ガイド (ACADEMIC RESOURCE GUIDE)
- 作者: 岡本真
- 出版社/メーカー: 築地書館
- 発売日: 2006/07/01
- メディア: 単行本
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はじめに
われわれの常識での著作集は,功なり名遂げた研究者が一生の軌跡を固有名詞を冠していくつもの巻にまとめあげ,出版=印刷したものであろう。もちろん二村は,『足尾暴動の史的分析――鉱山労働者の社会史――』(東京大学出版会,1988年5月刊行,asin:4130200844) を代表的著作に持ち,労働運動史研究の第一線で活躍してきたから,さきの研究者のひとりであることはいうをまたない(法政大学大原社会問題研究所所長および社会政策学会代表幹事の経歴はこれを示すものであろう)。
しかし,ここにあらわれた『二村一夫著作集』は,われわれが知っている著作集とはまったく異なる。ひとつは,出版=印刷という既成の媒体でなかったことにおいてである。そしていまひとつは,これまでの知的営みを独力で編集していることにおいてである。既成の著作集のレーゾン・デートルはこの意味で根底から問われているといえよう。
評者はかつて二村の試みをこう評したことがある。
いま確実に市民が変わりつつある。未来を予見し,大衆を「良き」方向に導くはずだった「良識」ある知識層が,ネットワーク社会を眼前にして右往左往の体たらくだからである。評論という安定した生活圏にひたすら身を置く。すでに敷かれたレールのうえを,一定のルールにしたがうかぎり得られる安定。資本主義社会における知性のあり方が根底から問われているというのに。
アカデミズムはそれでも捨てたものではない。いくつかの先駆的な試みを紹介してみよう。第一は,アカデミズムの脱アカデミズム化による評価システムへの志向ケース。二村一夫は,『二村一夫著作集』 The Writings of NIMURA KAZUO をインターネット上で編む試みをはじめた (http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/) 。「私がこれまでに書いてきた論文やエッセイを、なるべく多くの方に読んでいただきたいと思い,オンラインで『二村一夫著作集』を刊行」する試みであって,第一期分のうち四巻を一九九七年十二月にほぼ刊行を終え,一九九八年二月から第二期の刊行がはじまった。全十一巻にのぼる壮大な計画は,従来の研究者のライフスタイルを一新するのみならず,知的産物の客観化作業の冒険でもある。インターネットを通じたこの種の試みは,寡聞ではあるが,世界的にみても,日本においてもはじめてではないかと思われる。二村のページは,自己の知的営為の一環として独力での編集作業であること,一九三四年生まれという年齢,を考えると二重の意味で驚異である。(「情報化社会と市民社会――「知性」の「連合」にむけて――」(八木紀一郎・山田鋭夫・千賀重義・野沢敏治編『復権する市民社会論――新しいソシエタル・パラダイム――』日本評論社,1998年8月、220-221ページ,ISBN:4535551421)
みられるように,二村の試みは,彼自身の個人的側面からみれば,「なるべく多くの方に読んでいただきたい」という控えめな願望を超えた知的産物の客観化の冒険であり,それのみならず社会的な視点からは,アカデミズムに身を置くひとりの人間の真摯な――意識するにせよ,意識しないにせよ――アカデミズムへの問題提起とうけとめることができよう。
I 客観作業の構築物
『二村一夫著作集』は二村の知的活動の集積体である。構想中のものも含めて以下の構成である*1。
第1巻 『日本労使関係の比較史的検討』 (既刊)
イギリス,アメリカ,韓国など,諸外国の労使関係との比較において日本の労使関係の特質を解明する。
「企業別組合の歴史的背景」
「日本労使関係の歴史的特質」
「戦後社会の起点における労働組合運動」
「日韓労使関係の比較史的検討」
第2巻 『高野房太郎研究ノート』 (既刊)
100年前,日本の労働組合運動および生活協同組合運動を創始した高野房太郎の実像にせまる。
「高野房太郎の生涯」
「職工義友会と加州日本人靴工同盟会」
「労働組合期成会と高野房太郎」
「高野房太郎と横浜」
【付録1】「高野房太郎年譜」
【付録2】「サミュエル・ゴンパーズから高野房太郎宛書簡」
【付録3】「高野房太郎から弟・岩三郎宛書簡」
第3巻 『大原社会問題研究所をめぐる人びと』(既刊)
著者が大学院生時代から40年余,さまざまなかたちで関わってきた大原社会問題研究所の歴史と,研究所をめぐる人びとに関する論稿。
戦前期の大原社会問題研究所
戦後の大原社会問題研究所
第4巻 『労働関係研究所の歴史・現状・課題』(既刊)
1919(大正8)年に創立された大原社会問題研究所および協調会を中心に,日本の労働関係研究所の歴史をたどり,今後の課題を考える。
「労働関係研究所の歴史・現状・課題」
「大原社会問題研究所の70年」
「多摩移転前後の大原社会問題研究所−−1982〜1993年」
「戦前の労働調査をめぐって」
「協調会の労働調査について」
第5巻 『日本労使関係史論』(既刊)
日本の労働運動−−1868〜1914年
「第一次大戦前後の労働運動と労使関係」
「産報運動と戦時下の労使関係」
「戦後社会の起点における労働組合運動」
「戦後の労働運動と労使関係」
第6巻 『日本労働運動史研究案内』(未刊)
「文献研究・日本労働運動史(戦前期)」
「日本労働運動史研究入門 」
「労働運動史」
「労使関係・労働運動」
「労働運動史研究会の25年」
「労働争議研究の成果と課題」
「1960年代における日本労働問題研究の到達点−−兵藤つとむ『日本における労資関係の展開』に寄せて」
「日本労働組合評議会史 関係文献目録と解説」
第7巻 『労働関連統計の再吟味』(未刊)
「明治前期の鉱山労働者数」
「第2次大戦直後の労働組合統計」
「労働組合組織率の再検討−−実質組織率算出の試み」
第8巻 『社会運動機関紙誌の書誌的研究』(未刊)
「概観 第1次大戦後の社会運動機関紙誌」
「新人会機関誌の執筆者名調査」
「新人会機関誌の執筆者たち」
「雑誌『マルクス主義』の5年間」
「雑誌『マルクス主義』の執筆者名調査」
「『無産者新聞』小史」
「『出版警察報』所載の『無産者新聞』に関する調査について」
第9巻 『鉱業労働史研究』(未刊)
「鉱山業における労資関係の歴史的概観」
「〈足尾暴動の基礎過程〉再論」
「全国坑夫組合の組織と活動」
「鉱山労働運動の比較史的検討」
「『飯場制度関係資料』解題」
第10巻 『新資料発掘』(未刊)
永岡鶴蔵『坑夫の生涯』
自由法曹団『亀戸労働者刺殺事件聴取書』
片山潜未発表書簡
別巻1 『書評・被書評集』 (既刊)
(詳細省略)
別巻2 『労働史研究の諸問題』(仮綴じ本)(既刊)
「大原社会問題研究所の戦前資料について」
「労働争議研究の成果と課題」
「工員・職員の身分差別撤廃」
別巻3 『インターネットと労働運動』(仮綴じ本)(既刊)
「インターネットと労働運動−−世界と日本の労働組合サイト」
「紹介 エリック・リー『労働運動とインターネット』」
これらはこれまでの知的営為を主題別に編成したものであり,これから執筆するであろう著書やモノグラフなどがその都度新たに追加されるであろうから,現在進行形の著作集である。もっとも,「本来なら著作集に入れるべきものでも,現在市販されている本は除」かれているから,すべて二村の著作活動の集約ではない。
II 冒険と開拓――意義と限界――
この著作集が知的産物の客観化作業の冒険として評価できるとすればその意義はどこにあるだろうか。
まず第一に,著作集の構成が可変的でありえ,編者(この場合二村自身だが)の思うがままに編集できることであろう。印刷=活字世界にあってはひとたび日の目をみてからは構成・内容に手を加えられない物理的限界が存在する。しかし,ウェブ上の著作集は弾力的編集が可能である。いうまでもなく,最終完成物は編者が編集作業を止めた時点であり,語の本来の意味での未完の場合もあれば,完成に近い場合もあるだろう。いずれにしても,編集作業の終了まで未定稿でありつづけることになる。
第二に,二村の野心作は,印刷=活字を前提にしたものでありながらウェブ上でも読むことが可能になったことは重要なポイントである。ウェブ上での編集に意義を認め,活用しようと意図する者ならだれでも自分の作品を編むことができるのだ。印刷世界の枠の中でしか考えられなかった著作集が,手の届くところにあるわけである。ネームバリューのある作者を例外として,あまたある著作集は作者の知的活動に敬意を表した趣が強い。社会科学の専門的著作集となれば精々各巻数百部の部数でしかなく,出版社と作者が出版営業上の採算に乗るケースは多くはないとも聞く。新しい編集スタイルとして注目していいゆえんである。
第三に,独力編集スタイルである。さきに触れた,いつまでも未定稿という限界はあるにせよ,第一線で活躍中にみずからの手で編集できるのは,研究者冥利につきるといわなければならない。もちろん,多くの門下生たちによって編まれる著作集や出版サイド主導のそれも研究者としての名声があればこそ実現できるわけだが,個人の意志によって編集する(できる)行為は,市民社会におけるありふれたそれとはいえまいか。個を主体とした一種の市民的世界が,インターネットというインフラによって実現可能になったとしたらどうだろう。
それでもなお,二村の試みはいくつかの限界もあるように思う。第一は,著作集はすでに発表した印刷=活字をデジタル化したものにすぎないことである。印刷を前提にしながらもウェブ上でも読むことが可能になったところに評価の第一のポイントを置いたが,その裏側にこの印刷を前提にせざるをえない,文化・慣習があるからである。評者も含めて発表の場としては印刷メディアを抜きに考えられない現実をふまえれば,この限界を二村に負わせるのはあまりにも酷かもしれない。いずれウェブやインターネット上の(印刷を介さないという意味での)オリジナル作品がそれ相当に認知され,評価されるようになれば事態は別の展開になろう。第二は,ウェブ上の著作集編纂にかぎりない敬意を表しながらも,デジタル「化」(「 」に注意!),つまりすでに一度印刷に付されたものの加工だということである。デジタル「化」は発表した作品の事後的措置であり,補助的手段にすぎない。実はこれも二村の試みそれ自体に限界を刻印するにはあまりに一面的であることを自覚している。しかし,ウェブ上の著作集は,著作集であるがゆえに新しい試みなのであって,内容を問わないとすればこれに類するリソースはかなりの数にのぼるであろう。デジタル「化」も機械的に処理できるわけではない。デジタル「化」に要する時間も考えるほど短くはない。そうしたことを考慮しながらもデジタル「化」のもつ限界を感じざるをえないのだ。
おわりに
『二村一夫著作集』はまちがいなくウェブでの知的表現の一分野を開拓した。評者も含めて二村の壮挙を見守るだけでなく,試みのエッセンスをいかに発展させるか。労働運動史研究者および関心をもつ者に対しては資料的宝庫だろう。その分野以外の者にとっては表現の形態を学ぶ格好の場だろう。著作集という二村にして可能になった営為の現在進行のデジタル「化」は,自己表現のひとつの模範として研究的志向をもつ者をしてひきつけてやまない。
『二村一夫著作集』。20世紀末の日本にあらわれた意欲的試み。ウェブ活用の新しいスタイルを提起。近い将来のどこかでこんな回顧がなされるにちがいない。