004インターネット利用教育の衝撃と方向

初出:岩波書店編集部編『これからどうなる21――予測・主張・夢――』岩波書店,xxi+497+5頁,2000年1月20日,本体価格1,900円

これからどうなる21

これからどうなる21

CD-ROM版:asin:4001301040

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もともとコンピュータ・インターネットは,カウンター・カルチャーの要素を含んで発展してきたし,戦後における体制間対立の副産物でもあった。多くの道具と同じように,コンピュータ・インターネットは商用化の選択肢が可能になることによって,市場製品として普及の道を辿ってきた。教育をふくむ市民生活においても,ようやくインフラストラクチャーとなりつつあるといえる。
インターネットの教育利用をめぐる論点は,これまでの教育体制を前提にインターネット利用を進めていくか,それとも,インターネットという新しいツールを教育変革に結びつけるか,であるように思う。文部省の思惑とは別に,学校現場における対応の遅れと鈍さとは,パソコン・インターネットを指導できる教師が少ないという条件以上に,実はこの論点にかかわるインターネット利用の理念と応用の合意形成の未確立によるものである。インターネットが「パンドラの箱」や「トロイの木馬」にたとえられることが多い。なるほど今までの閉ざされた教育の空間が一気に世界大のネットワークと結びつくわけだけら,制度化された学習観・評価観・学力観・指導観からみて懐疑的になるのもうなずける。
インターネットは教育内容にすくなからぬ衝撃を与える。教育システムにたいしてもそうだろう。

学びの主体について。
(1)コミュニケーションの機会の増加は,いくたびの誤解やすれちがいを経て,人間の生身の生活現場や文化を知る大事さを感得するだろう。情感だけの,あるいは事務的な応答だけの,偏ったコミュニケーションの在り方を学ぶ絶好の場になる。日常の生活スタイルが人間の生きた姿に共感を覚え,交流する喜びを実感できるものになっていれば,ネットワークの威力はさらに増大する。
(2)知は,ひとりの人間の頭脳に収納されることではなく,他者との協同や客観的に存在する材料の活用によってなりたつ。インターネットに備わる機能は,この両面の活用をだれでも利用できるようにしたという特徴をもっている。
(3)獲得する知識は,学習者の問題意識によってさまざまなはずである。知への探求度合いの強弱によって学ぶ内容も規定されてくる。学びの主体が名実ともに教育体制の主人公にならなければならない。ネットワークという時代環境は,教育カリキュラムの核心に触れざるをえない。

教える主体について。
(1)教師にもとめられるのは,パソコンやインターネットそのものに関する知識ではない。ましてや学びの主体に一方的に知識を転移させることでもない。学習者によりそいながら,かれらの知の探求への道筋をともに歩むことが要求される。インターネットが学校現場に定着し,教育利用の理念が明確になったとき,教える―教えられる,という構図は,たぶんその限界をしめすだろう。
(2)教師は教育現場と社会との接点をなすという視点からすれば,教師の力量はさらに人間の生活現場への良き媒介者たりえるかどうかでおしはかられよう。教師自身がさまざまな「文化の創造的実践」・「文化的実践」(佐伯胖)にかかわり,学びの主体と鑑賞する姿勢がここでの鍵だ。
インターネットの思想的バックボーンは,イリイチの"conviviality"(「自律(立)共生」や「共愉」の訳語がある)にあるという。われわれがインターネットを「発見」したのはせいぜい数年前にすぎない。インターネットをして"conviviality"たらしめることができるかどうか。インターネットの教育利用の方向性は,一にかかってこの点にしかないように思う。