007市原健志著『再生産論史研究』

akamac2007-03-01

書誌情報:八朔社,iv+337頁,本体価格6,000円,2000年10月20日asin:4938571870
初出:新日本出版社『経済』第71号,2001年8月1日(縦書きのため,数字類は漢数字のままになっています。)

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はじめに
資本論』第二部第三篇「社会的総資本の再生産と流通」を通例再生産論と呼ぶ。戦前・戦後を通じて欧米と日本においては,この再生産論をめぐっていくつかの論争があった。
本書第二章でも触れられているように,(1)十九世紀末ロシアにおける資本主義の性格規定にかかわるもの,(2)二〇世紀初頭における恐慌・崩壊論争,(3)一九一〇年代の帝国主義の経済的基礎と反帝国主義路線にかかわって提起された帝国主義論争,(4)一九二〇年代にコミンテルンの綱領にかかわって提起された恐慌・崩壊・帝国主義論争,がそれである。
わが国においても,戦前のある時期,再生産論は,価値論,地代論とならびいわゆる「三大論争」(山田盛太郎)のひとつとして展開された経緯がある。
再生産論をめぐってはかつて華々しく論じられた時代があった,と回顧するのは簡単である。しかし,マルクス理論が現代においても意味をもつとすれば,とりわけ再生産論がことほどさように大きな議論を提起したとすれば,その意味を問うのは意味あることだ。理論史的研究は理論研究に劣らず,むしろ理論研究を最終的に規定する領域だからだ。
再生産論をめぐる論争において,『資本論』第二部第三篇をどのように理解したのか,論点はなにか,さらに現代においても継承されるべき論点はないのか。これらはすぐれて現代的問題につながる論点である。
 
一 本書の内容
本書は,「マルクスの再生産論をめぐる史的展開過程を再検討」(まえがき)したものである。わが国の再生産論研究および再生産論形成史研究の成果をもとに,『資本論』の再生産論を「未完成」としての立場を堅持している。ここで「未完成」とは『資本論』第二部第三篇の草稿性のことであって,「エンゲルスによる編集の方法および加筆等それ自体独自に検討を要するあまりに多くの問題点がある」(まえがき)ということである。
本書の内容は三つの部分からなっている。まず,第一章「再生産論の基礎理論」として,マルクス再生産論を概説した部分。つぎに,欧米と日本における再生産論論争を通史的に扱った部分である(第二章「マルクス以降の再生産論の展開」,第三章「戦前におけるわが国の再生産論の展開」,第四章「社会主義計画経済と再生産論」)。最後に,再生産論の展開を企図し,そのために継承する論点を批判的に抽出する目的をもって富塚良三,ローザ・ルクセンブルクそしてブハーリンに内在して検討した部分である(第五章〜第七章)。
とりわけ第五章以降の展開においての検討軸は,九〇年代に急激に進展したマルクス草稿研究の成果から,理論や論点に照射することである。第六章に収録された「補論二 『資本論』第二部「第八稿」の基本性格」は,本書において草稿研究がもつ意味をまとめて叙述していると読むことができる。
 本書は,このように,再生産論の理論史を通史的に扱いながら,それぞれの理論に肉薄し,かつマルクス草稿研究の進展から再吟味している。この検証は,余人をもって代え難いとすべきであって,本書のなによりの特徴である。
各章に配された再生産論はそれぞれに詳しく,再生産論史をまさしく深く掘り下げて論じているといっていい。評者はこの点に本書のオリジナリティーを認めたい。そのうえで,いくつかの論点を提示する。
  
二 いくつかの論点
マルクス草稿の研究からすくなくとも再生産論の展開にかかわる新しい事実の発掘と確認があった。
マルクスの再生産論形成にあってはスミス再生産論の批判とその克服に終始したといっていいほどスミスの「不変資本の再生産」の位置が大きい。本書においてもこの事実を草稿研究の成果としている。しかし,この確認と著者の再生産論および再生産論の展開(ただしローザ・ルクセンブルクの検討のさいに,彼女の指摘との関係で論じられてはいる)とがうまく結びついていない。マルクス再生産論の批判的対象をケネーにのみもとめるのは正しくないし,再生産表式の意義と限度を確定するうえでも不可欠の論点である。
また,第 I 部門と第II部門とはある時期までに逆転しており,そのことと逆転させられた後の第 I 部門蓄積率の先行的蓄積とはどう関連するのだろうか。本書で展開されるのはすでに獲得された部門配置にもとづく表式であって,草稿性を問題にするのであれば避けることのできない論点だろう。
さらに,資本循環論はいつ確立され,商品資本循環が再生産論の基礎とされることになった経緯と内容の確定はどうなのだろうか。もし,この点での踏み込んだ吟味があったとしたら再生産論史の論点も違った相貌をみせるのではなかったか。
本書の大部分は五年前にできあがっていたという(あとがき)。そのせいだろうか,参照文献の引用(各論者の最終収録本の部分的未確定)や巻末の「再生産論関連文献年代順一覧」(欧文一九八〇年,邦文一九八七年まで。さらにリストアップも恣意性を感じる。もっとも「文献は渉猟つくしていない」とことわっている。)も読者に親切ではない。

おわりに
おりしも,八四年より刊行された『資本論体系』(有斐閣,全十巻・十一冊)も第一〇巻「現代資本主義」(二〇〇一年四月)をもってようやく完結した(asin:4641053413asin:4641053421asin:464105343Xasin:4641053448asin:4641053456asin:4641053464asin:4641053472asin:4641053480asin:4641053499asin:4641053502asin:4641053553)。また,これまでの再生産論研究を「根本的誤り」とした論争的書物である,伊藤武マルクス再生産論研究』(大月書店,二〇〇一年二月,asin:4272111019)も刊行された。
かつて「マルクスルネサンス」は日本では不在であった。本書を契機としてふたたび再生産論が俎上にのぼり,「マルクスルネサンス」が到来することを切に期待したい。