011夏目漱石『明暗』のなかの「経済学の独逸(ドイツ)書」再論

夏目漱石(1867-1916)の『明暗』は,『朝日新聞』1916(大正5)年5月26日から12月14日まで188回にわたって連載された未完の作品である。漱石は12月9日に死亡したからである。この『明暗』に書名が明示されないある洋書が出てくる。(以下,引用は「青空文庫」のXHTML版を利用した。底本は『夏目漱石全集9』筑摩書房。)


(中略)
彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊載(の)せてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折(しおり)の挿(はさ)んである頁(ページ)を目標(めあて)にそこから読みにかかった。けれども三四日(さんよっか)等閑(なおざり)にしておいた咎(とが)が祟(たた)って、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気の差(さ)した彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらと翻(ひるがえ)して書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途遼遠(りょうえん)という気が自(おのず)から起った。
彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから今日(こんにち)までにもう二カ月以上も経(た)っているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物(ぐぶつ)のように細君の前で罵(ののし)っていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心を擽(くすぐ)った。
しかし今彼が自分の前に拡(ひろ)げている書物から吸収しようと力(つと)めている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多(めった)に実際の役に立った例(ためし)のない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力として貯(たくわ)えておきたかった。他の注意を惹(ひ)く粧飾(しょうしょく)としても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気(おぼろげ)ながら見えて来た時、彼は彼の己惚(おのぼれ)に訊(き)いて見た。
「そう旨(うま)くは行かないものかな」
彼は黙って煙草(たばこ)を吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早(あしばや)に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。

この後,主人公津田が入院(痔の手術?)のため持参する書物を選ぶシーンで,洋書が再現する。

三十九
(中略)
よそ行着(ゆきぎ)を着た細君を労(いたわ)らなければならなかった津田は、やや重い手提鞄(てさげかばん)と小さな風呂敷包(ふろしきづつみ)を、自分の手で戸棚(とだな)から引(ひ)き摺(ず)り出した。包の中には試しに袖(そで)を通したばかりの例の褞袍(どてら)と平絎(ひらぐけ)の寝巻紐(ねまきひも)が這入(はい)っているだけであったが、鞄(かばん)の中からは、楊枝だの歯磨粉(はみがき)だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙(しょかんようし)だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏(はさみ)だの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張(かさば)った大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折(しおり)が挟(はさ)んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」
津田君*1は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書(ドイツしょ)を重そうに畳の上に置いた。
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
こう云った津田は、それがこの大部(たいぶ)の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。
「そう、本はどれが要(い)るんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのを択(よ)ってちょうだい」
津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰(つ)め込んだ。

「経済学の独逸書」について,新潮文庫ISBN:4101010196)(紅野敏郎)には「マルクス主義関係のドイツ書と思われるもの。」と注解がある。岩波文庫版(ISBN:4003101146)にはなんの注解もない。漱石研究者によってもこの書物が特定されていないことがわかる。というのも,叔父が津田に差し入れする別の洋書については特定されているからだ。

七十六
(前略)
お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は拾(ひろ)い読(よみ)にぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……
(後略)

新潮文庫の注解ではカタカナ表記を英語に直したものが,岩波文庫のそれでは詳細に「"Everybody's Book of Jokes" ロンドンのサクソン社刊。漱石の蔵書中にその名が見える。」「"Everybody's Book of English Wit and Humor" 同じくサクソン社刊の一冊で,漱石の蔵書に名前が見える。」とあり,うえの「経済学の独逸書」は漱石の蔵書にはないらしい。
漱石の蔵書は現在東北大学附属図書館「漱石文庫」(ウェブ版は「夏目漱石ライブラリ」)に収められている。経済学関係のものは,『資本論』第1巻英語版(1902年刊)とJ. S. ミルの選集のみだ。「比較的大きな洋書」(五)・「一番重くて嵩張った大きな洋書」(三十九)・「経済学の独逸書」(同)・「大部の書物」(同)とははたしてなんだろうか。(この稿つづく)
【タイトルに「再論」としたのは,この問題をすでに10年ほど前,服部文男『マルクス探索』(新日本出版社,1999年8月25日,ISBN:4406026738)が論じているからである。本ブログでは,筆者の力及ばず,服部説を敷衍するにとどまっている。】

*1:岩波文庫版,新潮文庫版とも「君」はない。引用者注。