367水村美苗著『続 明暗』

書誌情報:ちくま文庫,427頁,本体価格840円,2009年6月10日発行

続 明暗 (ちくま文庫)

続 明暗 (ちくま文庫)

  • -

『季刊思潮』(1988年〜1990年),筑摩書房刊(1990年),新潮文庫(1993年)を経て,ちくま文庫として復活がなった。読んだ動機はひとつ。『明暗』中の「経済学の独逸(ドイツ)書」がどう扱われているかである。高橋哲雄のエッセイ集と原尞『私が殺した女』(いずれも下記関連エントリー参照)で中絶作品の続篇なるジャンルがあることを知ったからである。
「経済学の独逸(ドイツ)書」は第199段に出てきた。津田が病後の養生を口実に津田を振った清子に会いに温泉に出かけた留守中のシーンだ。
「まずお延は津田の机に向い,例の大きな独逸書を机の隅に押し遣ると,岡本に簡単な手紙を認めた」(52ページ)。
著者はさすがに漱石『明暗』の「経済学の独逸(ドイツ)書」に気がついた。「例の」としていることからわかる。と同時にこの「経済学の独逸(ドイツ)書」はいま津田の分身となった。
「主人(津田のこと:引用者注)が留守なのだから,仮令(たとい)女だって自分の居たい部屋を占領しても構わなかろうという反抗心にも似た気持ちと,夫の机や書物に囲まれていれば心が落ち附くような新妻らしい可憐な気持ちとが,同時に彼女を動かしたのだった」(同上)。
「経済学の独逸(ドイツ)書」は「机の隅に押し遣る」ことでお延の「反抗心にも似た気持ち」と「可憐な気持ち」の対象となったことになる。漱石のあちこちの情景と心理描写はたしかに『続』ではおおはばに削られている。さらに温泉場での津田,清子,お延などの修羅場に焦点を絞って徹底的に「人間を押す」叙述からすると,印象に残った箇所である。
漱石が津田に託して使った「経済学の独逸(ドイツ)書」――漱石=津田の問題関心のひとつ――は,こうして津田の象徴として効果的に昇華されることになった。