051寺崎昌男著『東京大学の歴史――大学制度の先駆け――』

書誌情報:講談社学術文庫1799,299頁,本体価格1,050円,2007年1月10日(「崎」は正しくは「大」ではなく「立」)

東京大学の歴史  大学制度の先駆け (講談社学術文庫)

東京大学の歴史 大学制度の先駆け (講談社学術文庫)

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本書は旧著『プロムナード東京大学史』(東京大学出版会,1992年,asin:4130033026)を底本とし,「II 沿革史と大学史料」を削除し,新たに「III その後の東京大学」を追加した文庫版である。日本の大学は1877年4月開学の東京大学(法理文・医)が最初であり,帝国大学と名を変え(1886年3月),さらに法・医・工・文・理の分科大学制度を採って本郷の地に集結した(1888年7月)。その後京都帝国大学が設立されたため(1897年),東京帝国大学になる。東京大学の歴史はかなりの部分日本の大学の歴史と重なっている。
本書では大学制度にかかわるいくつかのトピックを取り上げ,興味深いエピソードを綴っている。
学年歴。折しも9月開始の議論もされているが,大正時代の前半までの学年始めは一貫して9月であった。大学だけでなく中等教育以上の学校では9月始期制度が定着していた。ところが,政府会計制度と徴兵制度によって,日本の義務教育機関と教員養成系学校に4月始期が導入され(20世紀初め),旧制高等学校帝国大学の9月始期との併存が15年ほど続く。4月始期は,学校のつながりに無駄を無くし高等教育終了まで最短にするという政府の強い意向が働いたとする。教育論・学習論が不在のままでやむを得ず選択したのが4月始期だ。
キャンパスと校地。本郷キャンパスに落ち着くまでの経緯が詳しい。郊外,代々木案,本郷案,駒場案のうち有力だった代々木案が陸軍による土地譲与の拒否で挫折する。本郷キャンパス決定後の設計の担ったのが内田祥三(工学部長,総長)であった。
学部。大学史を繙く時,分かりづらいことのひとつがかつてあった分科大学だ。創立当初は学部,分科大学,大学令制定(1918年)以降は再び学部となる。分科大学制度は,専門学科に対応する教育組織という程度の意味であり,1887年に実施された博士学位制度と関係したと著者は推測している。実際当時の学位は法学,医学,工学,文学,理学の5つだけであり,帝国大学分科大学の数と一致している。農学博士は農科大学が設立された1890年からだ。学部組織は,教授,研究,研究者養成,管理という4つの機能を集中的に果たす組織として構想された。
大学院。帝国大学は当初から大学院と分科大学の2つから構成されていた。さらに大学院は研究機関であり,教授(教育)機関としては位置づけられていない。独自のカリキュラムや学位取得との連携もない。戦中期に東京大学などにあった特別研究生制度については触れられていない。
講座制。もちろん現在の講座制とは違う。発足当時は職務給を付与し教授の待遇改善策の一種であり,一人一講座制(専門性の強調による研究・教育の充実と効率化)だった。
学位。今の学位はたとえば「博士(経済学)」となっている。われわれが普通卒業式と呼んでいるものは,「学位記授与式」だ(1990年に学位規則が変わり,学士・修士・博士を学位としたことによる)。学位制度が始まって以来,大博士・少博士の区分と博士への一元化や課程博士・論文博士・博士会博士・総長推薦博士のような4種類の博士の併存などの時期があった。ちなみに,夏目漱石が文学博士を辞退したことは有名だ。漱石が辞退したのは博士会博士だ。著者も指摘しているように学位授与機構の創設によって(1991年),学位授与権は大学が持つ固有の権限ではなくなった。
附置研究所。伝染病研究所が最初である(1916年)。北里柴三郎が作った大日本私立衛生会附属伝染病研究所が起源だ*1。その後,航空研究所,地震研究所が続く。研究の一般性・普遍性と附置された大学の固有性・限定性との矛盾は附置研究所設立以来の問題であり続けている。
総長。そういえば,旧帝国大学はすべて現在学長を総長と呼んでいる。東京から始まり,京都,大阪に続き,東北,九州,名古屋,最後に北海道が総長となった。名称はともあれ官選総長から大学による総長選出にいたる経緯が中心に書かれている。学長選挙の持つ意味や法人化後の選挙制度の改変など触れるべき事項は多かったろうにと思う(「III その後の東京大学」で簡単に触れられている)。
停年制。本書で知ったが,定年と使うのが一般的で,停年と使うのは教育公務員特例法(第8条2項)と自衛隊法(第45条)の2つだけだそうだ。新制東京大学になっても長らく停年60歳だったことは周知のことだ。戦前から法制化なき停年制を実施し,学内規定を整備したのが1957年というから驚きだ。大学は独自の規定によって停年制を決めている。60歳から65歳が最も多く,70歳停年もあると聞いている。
成績と評価。徹底した点数主義から優・良・可・不可(あるいはA・B・C・D。厳正な成績評価が求められるようになり,愛媛大学では秀・優・良・可・不可の5段階評価になった。)による科目単位で履修する科目制度の導入と密接な関係があった。もっとも「進学振り分け制度」がある東京大学こそ徹底した点数主義を残存させているようにみえる。
付設教育課程。別課法学科,製薬学教場,別課医学教場,東京職工学校,古典講習科,農学実科など多数あったが,戦後設立の附属中学校や高等学校を除いて廃止された。
外国人教師。御雇教師,外国教師と言われもした外国人教師の存在抜きに東京大学の歴史は語れない。モース,フェノロサを始め,近代日本学問史に残る人物は多い。英・米人からドイツ人教師へのシフトは1880年代に起こった。英語はイギリス的立憲思想・フランス的共和主義思想に結びつくとし,日本語やドイツ語を通して国権の強化と憲法体制構築の準備と連動していた。
女子入学。帝国大学として女子入学を認めたのは東北帝国大学が最初である。東京大学創立以来初の女子学生は,東京帝国大学時代の戦後の1946年である。
五月祭。全学自治組織の解体の後に生まれた学生祭として,また大正デモクラシーの大学拡張運動ともつらなっていた。戦後復活した五月祭ではアダム・スミス文庫が展示されたという。
東京大学の歴史には確かに日本近代の社会と国家を見ることができる。学部,大学院とも東京大学ではなかった評者にも東京大学の歴史が持つ重みを感じている。本書ではほとんど触れられていない現在の大学に生かせる何かがあると思うからだ。なお,「解説」(折田悦郎)で,「大学進学率は上昇を続け,50パーセントを超えた」(278ページ)とあるが,日本の大学の歴史で「大学進学率」が50パーセントを超えたことはない。昨年度の文科省学校基本調査でも45.5パーセントである。大学・短大への進学率と間違えたのではないかと思う。大学・短大への進学率は05年度にはじめて50パーセントを超え,06年度に女子も50パーセントを超えたからだ。

*1:山崎光夫『ドンネルの男・北里柴三郎』(上・下,東洋経済新報社,2003年11月6日,上:asin:4492061339・下:asin:4492061347)は,北里生誕150年に出版され,伝染病研究所の創設,東京帝国大学への移管の問題を織り交ぜながら,北里の生涯を扱っている。