026寺出道雄著『山田盛太郎――マルクス主義者の知られざる世界――』

書誌情報:日本経済評論社,vi+226頁,本体価格2,500円,2008年1月20日

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「評伝 日本の経済思想」第1回配本として山田盛太郎(1897.1.29-1980.12.27)が取り上げられた。住谷一彦「山田盛太郎」(『経済思想』第10巻「日本の経済思想」2,日本経済評論社,2006年8月,[asin:481881878X])に続く山田論だ。もっとも山田の評伝というよりは山田の代表的著作である『日本資本主義分析』(岩波書店,1934年;戦後単行書版,1949年;岩波文庫版,1977年;著作集第2巻,1984年)の再読といったほうが正確だ。『分析』誕生までの章(第1章から第3章)と『分析』後の簡単な叙述と近代主義モダニズムとの関連をまとめた章(第8章と第9章)以外はすべて『分析』の分析と解読にあてられているからである。
著者は『分析』を基柢(第三編),生産旋回=編成替(第一編),旋回基軸(第二編)の順に解読し,特徴とその反響についてまとめる(第4章と第5章)。そのうえで著者は,山田『分析』がアヴァンギャルド芸術の作品として,社会科学と芸術との融合を目指した作品であることを主張する。まず,日本資本主義の構造をあたかも立体模型のように眼前に再現したのが『分析』であり(「仮想の空間における立体構造」150ページ),「型」の編成・分析・分解をとおして日本資本主義の全生涯を描いたとする。「『分析』のアヴァンギャルド芸術的な性格は,第二次世界大戦前はもとより,その後においても,山田自身によって封印され続けた」(155ページ)ゆえに,『分析』の叙述は「難解」「晦渋」「暗号」「呪文」(同)となってしまった。ロシア構成主義の影響があったのではないかという著者の解読は『分析』理解に新しい光をあてることになった。もっとも本書での指摘を待つまでもなく,『分析』を理解するために建築物や構造物にたとえて説明することは数多く試みられてきた。ロシア構成主義との関連を明確にしたのは著者がはじめてであろう。
『分析』の文体はいまひとつのアヴァンギャルドの影響だろうという。日本語の通常の構文法が破壊されていること,日本語の通常の句読法が破壊されていること,数式記号が多用されていること,がそれだ。「未来主義の『自由語』の基本的な要素の,日本語における散文への導入の実験例」(165ページ)であり,読むものをして『分析』の叙述過程に没入させる効果をもっている。他方で山田は漢文調・和文調のリズムも依存しており,そのことが総じてアヴァンギャルドの強い影響下で執筆された作品であることをみえなくしてしまった。
山田は『分析』をとおして,「ルビンの杯」に「二人の若い女性の顔」を見た一般常識にたいして,「黒い酒杯」を見ることで社会科学的認識の強烈な転換をもたらそうとした。著者が本書で描いた『分析』像は,アヴァンギャルド作品というこれまでにない視点からのもので,『分析』解読として魅力的な論点を提起しているといえる。
「評伝」としてはどうだろうか。すでに触れたように本書はあくまでも『分析』が中心である。『再生産過程表式分析序論』(改造社,1931年;戦後版,1948年;著作集第1巻,1983年)については,「『資本論研究史上の一齣として以上の価値を持っているかどうかは疑わしい」(44ページ)としているが,『分析』が著者のいうようにアヴァンギャルドの影響を受けた作品であるとするなら,その理論と方法を提示したこの『序論』はどのような性格をもつことになるのだろうか。著者は「山田が『分析』を構想する上で,大きな基礎となった著作」(44ページ)と認めている。これまでの『分析』理解によれば,『序論』は山田が資本主義分析の基準として再生産論を提示したものとされている。つまり,『分析』は『序論』の方法を戦前期日本資本主義の構造分析に応用したのであり,著者が発見したアヴァンギャルドの影響とは無関係に『分析』の叙述はありえたのだ。著者は「大きな基礎となった著作」である『序論』とアヴァンギャルドからの影響とをどのように解読するのであろうか。
いまひとつ,山田の戦後について「単著にまとまらなかった論文や草稿であるし,その論文も,『分析』の諸編の凝集力を欠」き,「崇拝者に取り巻かれた碩学としての,穏やかな後半生」(184ページ)としていることについて。農地改革の歴史的意義のみならず基本農政から総合農政と続く戦後農政(農業潰しという意味ではNO政)の展開に憂慮し,土地国有化を提起するにいたる後半生はけっして「穏やか」ではない。山田の体系は戦前の『分析』で完結したのではなく,戦後日本資本主義の構造把握にも意欲を燃やしていた。「重化学工業化の現状の分析に取り組」み,「晩年まで,常に日本の現状を問題とし続ける学究」(183〜184ページ)との著者の山田評価があるだけに,「穏やかな後半生」論に違和感をもつのは評者だけではあるまい。
かつて本ブログで,大石先生追悼文集刊行会編『日本近代史研究の軌跡――大石嘉一郎の人と学問――』(日本経済評論社,2007年11月,https://akamac.hatenablog.com/entry/20080123/1201083608)を取り上げたことがある。この書物のなかで,『分析』を中心として山田への長時間にわたるインタビューがあり,テープ保存されていることが書かれていた(135-136ページおよび324-325ページ)。このインタビューは公開されていないが,山田は「あの時期のこと(『分析』執筆時:引用者注)を,今の時点で(1964年:引用者注)私が書くとすれば,『分析』と違った視点から,別のように書くだろう」と答えたとの証言がある(325ページ)。
山田が心筋梗塞後の快気祝いに配った紫の地の袱紗には白く抜かれて,つぎの詩があったという(常磐政治「想い起こすこと」著作集月報4,1984年;本書186ページ;適当に改行。ちなみに,著者はここに回転運動と垂直方向の運動という『分析』模型の基本運動があるとし,『分析』の秘密をかすかに示唆しているとしている。)。

うそ暗き門をすぎて一晝夜半 地軸の底より抜けだせり吾れも
上へ上へと上昇の バッハ弥撒ロ短調 胸部垂直の激痛にしもや
不死鳥は灰燼のなかに起つと云う また零よりぞ出発すなる吾れは
山田盛太郎
33.7.20(「33」は昭和33年)

評者は職を得てからこの言葉を机わきに大書して日々の励みにしてきた。時に「バッハ弥撒ロ短調」をBGMにして。