029ふたたび,だがちょっとだけ松尾匡著『「はだかの王様」の経済学――現代人のためのマルクス再入門――』について

書誌情報:東洋経済新報社,xxi+288頁,本体価格1,900円,2008年6月19日

「はだかの王様」の経済学

「はだかの王様」の経済学

  • 作者:松尾 匡
  • 発売日: 2008/06/06
  • メディア: 単行本

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さきに,松尾著について書いたところ(https://akamac.hatenablog.com/entry/20080803/1217769650),さっそく松尾さんからリプライいただいた(http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_80805.html)。本ブログで取り上げた紹介 (introduction) と書評 (review) で著者本人からなんらかのコメントを直接いただいたのは,的場さん(https://akamac.hatenablog.com/entry/20080505/1209993407)と松尾さんのおふたりだ。評者としてうれしく思う。
ただ,ふたつお願いがある。「先生」はやめてほしい。大学・大学院を通して松尾さんとは師弟関係がない。松尾さんからみれば,評者はほんのすこし(?)年上になるだけであり,あるのは研究上やネット上での対等な関係だけだから。評者も賛同するアソシエーションって,表面的かもしれないが,こんなところからはじまるのではないかと常々考えている。もうひとつ,「マルクス研究の碩学」などというのも,評者は好きではない。美術館や博物館の「見学」は好きだが,実際のところ「碩学」でもなんでもない。
さて,松尾さんとは丁寧にリプライしてくださっている。ここでもふたつ論点があると思う。ひとつは,評者が問題とした,ゲーム理論による制度分析がマルクスを超えているのか否かということだ。松尾さんの説明によれば,制度分析は制度分析の限界を突き破り,マルクスの主張に行かざるをえないことを意味するようだ。それは制度分析の限界と意義を主張するものであっても,マルクス理論の代替案になることを意味するものではないだろう。制度分析にいたる経済思想の背景のひとつとしてマルクス理論があったと推測する。マルクス→制度分析はいえるが,制度分析→マルクスはいえるだろうか。評者は,かつてジョン・ロビンソンが言った,「現代経済学に何らかの進歩が期待されるとすれば,それはマルクスが提起した問題を,アカデミックなツールでもって明らかにしていくことだ」(『マルクス経済学』)とする理解の延長にゲーム理論を捉えてみたい。
いまひとつは,「はだかの王様」を疎外といえるかどうかだ。「みんな,自分には服が見えないだけで,服は本当にあって他の人には見えているのだと思い込んでいる」と松尾さんは言う。コミュニケーションの断絶によって家臣たちが疑心暗鬼になっている,それを疎外といい,ゲーム理論と同じと理解している。ゲーム理論への適用へはともかく,マルクスは「思い込み」をもって疎外とは捉えていないと思う。「はだかの王様」の例で言えば,自分はもとより他の家臣も,王様がはだかでいることが普通であると観念されることを疎外というのではないか。家臣たちがいくら意見を述べあっても,あるいはお互いの行動を予想しあっても克服できない状況,と言い換えることができるかもしれない。王様がはだかであることを誰しも不思議に思わない状況を疎外というべきであって,王宮外でこどもにはだかでないよと言われてしまう状況は疎外とはいえない。いま,適切かどうかわからないが,王宮を資本主義とし,こどもをマルクスと例えるならわからないわけではない。
付け加えると,「思い込み」が「他人の行動についての予測」であるならば,マルクスの説く貨幣の成立(価値形態論)は「思い込み」によるものではない。松尾さんの議論は,評者も同意できるマルクス理解がある一方で,ゲーム理論への接続に急で異質ともいえる要素を疎外論とまとめてしまった感がある。もちろん,疎外論ですべて説明できるとして一書をものにする松尾さんの筆力には脱帽するしかない。とりあえず,リプライのリプライということで。