286ノーマ・フィールド著『小林多喜二――21世紀にどう読むか――』

書誌情報:岩波新書(1169),iv+263頁,本体価格780円,2009年1月20日発行

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プリンストンで日本文学・日本文化を専攻する著者の小林多喜二論である。密度の濃い本書を日本語で書き下ろした著者は日系人(米国人の父と日本人の母)ではある。10年前の小樽文学館での多喜二との出会いが出発という。たまたま『蟹工船』が脚光を浴びる時期の刊行になった。
個人の心理と社会的構図の接点を発見した小樽高商(現小樽商科大学)卒業時代までの叙述では,伊藤整の言葉が目を引いた。著者は,伊藤整が多喜二文学碑建設に奔走したのは倒れたライバルへの敬意,自らのコンプレックスに対する恥じらいあるいは悔い,多喜二文学への深い理解があったとする。そのうえで「政治的主義主張のために書かれた作品も後にはその「純粋な文学的」価値によって評価が決まる」とした伊藤整を肯定的に引用し,プロレタリア作家としての評価以前に持ち合わせていた多喜二の感性を引き出している。
銀行員から作家としての自立を扱った部分では,多喜二の作品分析を通して,社会運動とプロレタリア文学の限界を意識していたこと,中央公論や改造など当時の商業出版物がプロレタリア文学に商品価値を見いだしていたこと,『蟹工船』ブームは多喜二の目指していた文学作品の使用と文学とのかぎりない接点とも読みうることなどが指摘されている。プロレタリア文学や多喜二評価にも行き届いており,著者の多喜二および多喜二論への目配りは周到だ。
東京での非合法活動の時期では,多喜二のリアリズム論を「想像と創造を要する,ふつうの眼でいくら凝視しても気づかないか,見通す(「見通す」に傍点:引用者注)にことのできないものを,小説のことばの力で見えるようにする文学観と世界観」(190-1ページ)と書く。同時に,『蟹工船』で高名を得たのにたいし,『党生活者』(とくにハウスキーパーと呼ばれる女性描写)で批判されることになる多喜二作品を,「「私」の生活を追求することを通して,どこまで個人の生活が捨てられる(「られる」に傍点:引用者注)かとともに,捨てられるべき(「べき」に傍点:引用者注)か」(232ページ)を問題にしたとの解釈を示す。『党生活者』は多喜二自身の葛藤をそのまま書いた「プロレタリア文学版実存小説」(238ページ)の特徴づけはこれまでにない着眼だと思う。
著者が読み解いた多喜二は,これまでプロレタリア文学と党派性の延長に終始した多喜二論と一線を画している。
1933年2月20日,3時間の拷問の末,多喜二は絶命した。思想の弾圧を作品化した多喜二は,「純粋な文学的」価値によって何度でも読み返されるのだろう。