384大澤真幸著『増補新版 性愛と資本主義』

書誌情報:青土社,287+iii頁,本体価格1,900円,2004年10月12日

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「恋愛する主体は,なぜ通常の者よりも一層孤独に敏感なのだろうか?」(16ページ),「愛は,自らの本源的な欲求を全うしようとすれば,常に挫折しなくてはならない」(67ページ)。見事な警句(誰への?)というべきだろうか。
愛論と資本論も(1996年旧版),オフサイド反則規定を介在させたサッカー論も(増補新版),「第三者の審級」論が貫かれている。中村俊雄『オフサイドはなぜ反則か』([ISBN:9784385431192][ISBN:9784582764154])を援用し,オフサイドこそ「終わり=ゴール(得点)の瞬間の爆発的な興奮」「鬱屈感」(262ページ)を引き出す装置というわけだ。サッカーが「「終わり」を目指し,「終わり」へと収束」(283ページ)するスポーツであるのにたいし,アメリカン・フットボールやバスケットボールに代表されるアメリカ発祥のスポーツは「「終わり」を廃棄し,乗り越え,さらに彼方にある「終わり」への指向」(同上)をもつ。それゆえ,サッカーは資本主義の国民-国家としての編成(「内部の閉鎖」)を,アメリカン・フットボールなどは資本主義の帝国としての編成(「外部の包摂」)を示唆するのだという。
なるほど,サッカー論にオフサイド,総時間90分(ロスタイムはあっても純粋にプレー時間ではない),得点の偶然性などに「第三者の審級」論をみる。他方で,アメリカン・フットボールなどが「第三者の審級そのものが摩滅し,その効力を失ってしまう社会の到来を予感」(281ページ)させる論理は十分に展開されていない。絶対的なコーチがいて,プレイヤーを駒のように使うアメリカン・スポーツの特徴はむしろ「第三者の審級」論とは別の論理だろう。