383文末は困る”であろう”論

ブログを書いていると,文末に困ることがある。「ある」とだけ続けると固くなる。体言止めにしてみたり,疑問形にしてみたりする。「であろう」や「だろう」とすることもある。「と思う」も使っている。
外山滋比古日経新聞連載「日本語の散歩道」で「訳せぬ「であろう」」(2010年11月21日付)に引き込まれてしまった。1960年代半ばに京都大学で研究し,日本人の英訳や閲読の仕事をしていたアンソニー・J・レゲット(2003年のノーベル物理学賞受賞)のエピソードである。
レゲットは日本人の英文の書き方を日本物理学会の会誌に発表し,物理学論文では「であろう」を使うなと注意したというのだ。「であろう」は may be と訳すことができないであろう(?)と。
当時「訳せぬ「であろう」」論として話題になり,物理学論文から「であろう」表現が一掃され,他分野のサイエンス論文からも消えたという。外山はつづけて「であろう」は may be のつもりだけでなく「である」 is の変化としても使うことがあり,一般の文章では有用であると結ぶ。
なるほど,人文・社会科学系論文でも「であろう」や「と思う」などとはあまり使わない。でも,少なくとも評者のブログではそれなりに使用することになる「であろう」(これは may be )。