書誌情報:岩波新書(1292),viii+205+5頁,本体価格720円,2011年2月18日発行

- 作者: 小坂井敏晶
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/02/19
- メディア: 新書
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人は真犯人を見つけられるのか。犯罪とはなんなのか。司法への市民参加(裁判員制度)の検討と誤審の生じる仕組みの検討を通じて真犯人を見つける困難性を論じ,責任の論理構造の検討から犯罪と処罰の正体に迫ろうとしている。
欧米の裁判のあり方は,英米とフランスの政治理論における「市民」含意の相違に規定されている。具体的個人の集合として社会を把握する英米と,個人を超越する抽象的存在として国家を措定するフランスという歴史的文脈のなかで生まれてきた。ひるがえって日本の場合は,フランス型の市民の影響力をもっとも抑えた制度であって,フランス参審制――ナチス・ドイツ支配下のヴィシー傀儡政権が厳罰化を目的に導入した――と酷似しているという。有罪か無罪かの評議の省察とその力学の作用から「評議の途中で無罪の方向に変化しやすい傾向は一般的」(42ページ)などを指摘し,社会装置としての裁判を確認する。
ついで冤罪を生む構造を分析し,裁くという意味を考える。自白の心理学,技術,記憶の曖昧さを摘出し,「犯罪捜査という,バイアスのかかった磁場の構造」(128ページ)を問題にする。「人が人を裁く」難しさを徹底的に曝いている箇所である。われわれは,①情報不足,②社会属性から自由ではないこと,③即座の反応が必要であること,から科学や哲学の知見とは異なって検討不十分なまま判断や行動に結びつく(これは最近経済学史学会の福島開催回避決定を想起してしまった)。法律解釈と事実認定そのものとは異なっているのだ。人間は簡単に影響される存在でありながら,同時に自律感覚を持った存在でもあるというこの「錯覚」(135ページ)こそ,「人が人を裁く」ことに内在する構造的問題ということになる。
責任の論理構造の検討は前著『責任という虚構』(関連エントリー参照)で発した「責任虚構論」にもとづいている。「自律的人間像に疑問を投げかける科学と,自由意志によって定立される責任概念との間に横たわる矛盾」(142ページ)がそれである。「自由意志は,責任のための必要条件ではなく,逆に,因果論的な発想で責任を把握する結果,論理的に要請される社会的虚構に他ならない」(159ページ)。われわれの社会はこうした「虚構」とこの「虚構」を隠蔽する秩序が成立している。「責任・道徳・経済市場・宗教・流行・言語など」はまさしく人間が作り出しておきながら,人間に届かないものとなる。「無から根拠が生まれる錬金術」(186ページ)なのだ。
裁判とは犯人を特定し,犯罪とは犯人の主体的行為と認定する。この儀式をおこなう社会秩序維持装置がわれわれの社会に組み込まれている。異議申し立てや異論,多様性を確保せよ,が著者の結論だ。「より良い生き方を目指そうとする時点ですでに我々は,誤った道を踏み出している」(198ページ)。
「本書に不備な点や誤謬があれば,著者のみがその責を負う」(205ページ)という。著者の「責任虚構論」からすればどのように解釈すべきなのだろうか。
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