004北原勇・伊藤誠・山田鋭夫著『現代資本主義をどう視るか』

akamac2007-02-08

書誌情報:青木書店,1997年6月25日,259+iii頁,本体価格2,500円,ISBN:4250970094
初出:基礎経済科学研究所『経済科学通信』第86号,1998年4月1日

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I 本書の構成と特徴

本書は,「正統派」(北原)・「宇野理論」(伊藤)・「レギュラシオン・アプローチ」(山田)の「サンカクディベート」の集成である。1995年経済理論学会第43回大会の共通論題における三氏の報告「現代資本主義分析の理論と方法」を契機として,相互批判・討論の部分を拡充して編まれた書物である。第1部「提起とコメント」には,「新しい国家独占資本主義論」(北原),「逆流仮説」(伊藤),「フォーディズムとその盛衰」(山田)の基調報告とコメントを配し,第2部「討論」には,方法論,高度成長期の蓄積体制,70年代以降の経済危機,現代資本主義の将来,の各論点に関する討論を配し,第3部「討論を終えて」には,討論の補足を配している。共通の現状認識は,1970年代を分水嶺として資本主義の危機と再編の時期とみること,マルクス経済学の現代的展開を試みようとすること,資本主義的蓄積の動態を資本・賃労働関係の歴史的変化に位置づけること,現代経済学批判でなければならないこと,にある(「はしがき」および山田の「現代資本主義をめぐる3見解の比較対照」参照)。
20世紀末という歴史の転換点をむかえようとする時代にあって,マルクス経済学が現代資本主義分析にはたしてきた意義を総括する意味でも,各学派間の論点の相違を浮き彫りにする意味でも,また,現代資本主義分析にかかわる主要な論点が提示されており後学の道標になりうるという意味でも,この種の書物が公刊されたことは大いに評価されていい。
経済理論学会の報告・討論,さらに本書を編むための討論を経たものであることが,マルクス経済学の創造的発展に資する共通点,および各派の特徴と相違を,明確な輪郭をとって内容に反映させている。とりわけ,3論者が共通して認めているように,違いが際立ったことにこそ本書の意義を求めることができる。

II 具体的論点
さて,具体的論点に目を転じてみよう。「理論と方法」に関しては,総じて北原・伊藤と山田との対抗が軸になっている。前者の,マルクス経済学の基礎理論をどのように生かして現代資本主義の特性を分析するかに対して,後者の,『資本論』を19世紀資本主義論と断じ(『帝国主義論』については「特殊な状況下の時論」とする),徹底して現代の一般理論の構築を提唱しているからである。『資本論』・『帝国主義論』の発展・継承か,相対化か,がここでの大きな争点である。
高度成長期の蓄積体制についてはいくつかの議論がある。独占資本主義論の視角の有無の違いはあれ,高度成長の要因を「フォード主義的労使妥協の制度化」(山田),「国独資的労使妥協」(北原),「労働者の交渉力の強化」(伊藤)にそれぞれ事実認識が共有されている。「段階論ないし中間理論としての現代資本主義論の再構成」をめぐる宇野理論については三者三者三様であり,批判(北原),保留(伊藤),評価(山田)であるところが興味深い。国独資論をめぐっては,国独資の一般理論の位置づけと冷戦下・国独資論についての北原批判を主旋律としており,伊藤の肯定的批判と山田の否定的批判が好対照をなしている。冷戦と旧ソ連についての認識については,3者ともソ連社会主義が「社会主義」として建設され,世界史中に位置づけられたという実体のない「共同幻想」ということでは一致しているかに見える。高度成長期の諸要因については,「政策的側面」(北原),「具体的・歴史的諸条件」(伊藤),「経済構造的要因」(山田)の力点の違いという以上に,それらの方法論上の懸隔を指摘できよう。
経済危機の理解についてはどうか。フォーディズムの危機として捉えるレギュラシオン理論について,それを過大評価だとする批判(北原)とレギュラシオン理論に即して「シンボル」としても使われているして肯定的理解(伊藤)がある。レギュラシオン理論の中心概念に拒否反応を示す「正統派」と親和性を示す「宇野理論」の特徴が垣間みることができる。原因については,資本の過剰蓄積の評価にかかわり,70年代危機の特殊性の議論が一部あっても,労働力不足・賃金騰貴に原因をもとめるか(伊藤),「生産と消費の矛盾」のあらわれか(北原)という本質論の議論で平行線といえる。また,長期化を辿っていることへの評価では,停滞(北原),資本主義体制の危機(伊藤),フォーディズムの危機(山田)というごとくここでも鋭い対立がある。
再編の方向と展望をめぐって。「逆流する資本主義論」(伊藤),「バイファイケーション論」(山田),「世界大・国独資論」(北原)の相互理解を述べ合い,社会主義の評価への楽観(伊藤)と悲観(北原・山田)の構図が浮かび上がり,最後に人権重視の将来社会の展望をもって激論が終焉する。
見られるように,それぞれの論点について3論者間の距離は等距離ではない。時には相互反発もあれば相互理解もあったうえでの親近感も散見される。

III 評価と展望――総体把握と学派間協同――
本書の共通の視点は確かにあるのだろう。山田によるパラダイム転換の提唱を背景にしたレギュラシオン・アプローチは,「正統派」・「宇野理論」という既成の学派に有効な批判視点ではあっても,レギュラシオン・アプローチがひとりパラダイム転換のターゲットから逃れられないのも事実だ。伊藤の「宇野理論」の創造的改変の志向は,時に真摯な批判受容ともみられようが,「宇野理論」の混迷をも照射していよう。北原の原則的対応と批判は,論点の明確化を助けてはいるが,国独資論の固守にかえって理論基盤の脆弱性が見えかくれする。
伊藤が方法論上の再考を素直に認めていることをのぞいて,最初に指摘したように際立った相違点を看取できれば本書公刊の意味がある。このレベルでいえば,3学派間討論という性格よりもむしろ3学派に属する3論者による「サンカクディベート」というのが正しい本書の読み方であろう。それぞれの方法論に立脚して具体的素材を具体的に分析し,その正否を問わしめることこそ必要だということを読者にあらためて示した功績は大きい。北原がいうように論争を回避してきたのでもなく,討論が嫌いでもなく,そうした場がなかっただけだと思うから。
ME化=情報通信革命とりわけインターネットをどのように評価するかについては,ひとり北原のみが各所で強調しているだけで,まったく論点にもなっていなかった。3学派および3論者の現状分析の試金石をなすと思われ,また,人一倍この分野の分析を待望していた評者にとってはまことに残念だったというしかない。マルクス経済学の未来は,学派を超えた知的営為の時代を終焉させたところに開けるのであろう。インフラからコミュニケーション手段にいたるインターネット論の展開がこの磁場になるのではなかろうか。