129野間宏『真空地帯』と『共産党宣言』

調べ物をしていて,興味深い一件に遭遇した。宮島達夫「『共産党宣言』の訳語」(言語学研究会編『言語の研究』むぎ書房,1979年10月)という約100ページにわたって『共産党宣言』の訳語を調べたもので,中国語訳の検討もある労作に出てくる一場面だ。この論稿の末尾で,野間宏『真空地帯』の一説を引用して稿を閉じている。労働者あがりの兵隊が『共産党宣言』を暗唱する場面である。「染」とは「染一等兵」のこと。

曽田はだまって,木谷が一体どこへ行っているのだろうと考えていたが,彼は傍の染が異様な言葉を口にするのを耳にした。
「一つの怪物が,ヨーロッパをあるきまわっている,共産主義の怪物が。旧ヨーロッパのあらゆる権力は,この怪物を退治するために神聖な同盟をむすんでいる。法王もツァーリも,メッテルニヒもギゾーもフランスの急進派もドイツの官憲も……」曽田は自分の横で或る種のお経のような調子で誦(そら)んじられるその言葉をきいていたが,それはもはやうたがう余地もない,『共産党宣言』の最初の言葉だった。それは闇の中にひびく。彼はなおもつづけようとする染の体を右肘でおして,それをやめさせた。
「おい,やめとけよ,……こんなとこでやるやつがあるかい。」
「へえ」と染は言った。
「お前,それが何や知ってるのか。」
共産党宣言だんがな。」
「どうして知ってる?」
「兄貴がよう教えてくれましたがな……兄貴が共産党やったもん……」
「そうか……。お前のうちは鉄工所やったな……」
「町工場だんがな……」
「兄貴は……いまは,どないしてんねん。」
「行ってまんがな……。はいってまんねん。」
「刑務所か……」
「へえ……」
岩波文庫版,下巻,68〜69ページ)

宮島は,染一等兵が諳んじた『共産党宣言』は,作品の時代背景(第二次世界大戦)からは堺利彦訳(1904年;1906年)か早川二郎・大田黒年男訳(1930年)になるだろうとしている。野間が実際に引用したのはマルクスエンゲルス選集の訳(1950年)である。ここでは「怪物」ではなく「妖怪」になっていた。
野間は1950年訳を利用しながら,「妖怪」を「怪物」にしたことになる。野間は堺訳,早川・大田黒訳も持っており,「怪物」がふさわしいと判断したのだろうか。興味が尽きない。