021渡辺雅男著『市民社会と福祉国家――現代を読み解く社会科学の方法――』

書誌情報:昭和堂,vii+254+iv頁,本体価格2,900円,2007年4月20日

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著者は,前著『階級!――社会認識の概念装置――』(彩流社,2004年1月,asin:4882028611)において階級概念の復権を主張した(評者の書評を参照。https://akamac.hatenablog.com/entry/20070313/1173755016)。本書では,階級社会と市民社会(階級論と市民社会論)として鋳直し,福祉国家論との関係を論じる(第1部と第2部)。グローバリゼーション論については著者によって新たに規定直された帝国主義論を対峙して対抗原理を説く(第3部)。
著者は現代社会の対抗的原理を不平等原理と平等原理(格差と平等の二律背反とも表現している)にもとめている。現代社会はつねに階級性と市民性の構造的な二重性を原理としている,格差社会(階級社会)と平等社会(市民社会)の二重性をあわせもつということである。
福祉国家論は階級社会と市民社会という二重性の理解に立って国家の二重性から説明されるとする。戦後の福祉国家が迎えている危機とは市民社会の危機ととらえられることになる。第2部での実際の論述は,富永健一批判と福祉資本主義の類型化による福祉レジームの検討であり,日本における家族主義的福祉制度の問題性の指摘である。政策課題を明確にした部分と読み取ることができる。
第3部はレーニンの段階論的帝国主義論を排しギャラハー=ロビンソンによる自由貿易帝国主義論(自由貿易による経済的支配という非公式の帝国主義と武力による領土獲得という公式の帝国主義と分けられるにしても帝国主義としては同じであり,程度の差と理解する考え方)を援用する。グローバリゼーションとは現象整理の概念にすぎず,ある実態を覆い隠す概念とする。公式の植民地を持たず,自由貿易を唯一の武器に公式帝国を拒否しながら,非公式帝国としての夢を追うのがアメリカであり,帝国主義の典型というわけである。アメリカが「世界の憲兵」として覇権を行使している金融的帝国主義アメリカの素顔という。草の根反グローバリゼーション(いくつもの潮流が存在する)は資本主義の規制と帝国主義の抑制を通じてグローバルな市民社会の実現と位置づけられる。
本書は市民社会の現代的展開を目指したものと言っていい。巷間に流布している市民社会論ではなく,高島善哉(1904-90)によって主張された「市民制社会」概念だ。「市民制社会」は『社会科学の再建』(新評論,1981年,[asin:479489967X])で生み出され,最後の著書『時代に挑む社会科学』(岩波書店,1986年,[asin:400001031X])では近代的な生産力体系を意味するとされた。高島がその後おこなった講演記録をもとに紹介している*1。著者の市民社会論を整理しておこう。
日本で最初に「市民社会」を言ったのは大塚金之助である。大塚が一橋に市民社会論の種を蒔き,種を育んだのが高島だった。高島の「市民制社会」の造語は西欧市民社会から日本の市民社会を考えるためのものであり,啓発的な意味と生産力体系という普遍的要素を抽出するためだった。丸山眞男大塚久雄市民社会という言葉を慎重に避けており,市民社会論者ではない。丸山,大塚を市民社会論派としたのは,内田義彦の「市民社会青年」であり,日高六郎の「近代主義者」の分類からである。正統派マルクス主義への距離をもたせるため,あるいは教条的マルクス主義と反共的自由主義いずれにも与しないと意味だ。ところが平田清明になると,マルクス市民社会概念を見いだすという形で「通俗化」「矮小化」「経済学化」「マルクス経済学化」(36ページ)されてしまった。
高島の市民社会論とは「資本主義的な観点から市民制社会を活用していく,利用していくというか,運用するというか,そういうもう一つ高い立場」(27ページから孫引き)であり,著者が引き継ぐ市民社会論だ。著者のいう社会の二重性の重視の意味がようやく合点した。内田,平田らの市民社会論は別の系譜の市民社会論ということになる。著者からの問題提起と受けとめておきたい。

*1:本書によれば,最後の著書の出版後2回の講演をおこない,一橋の同窓会組織如水会のウェブhttps://www.josuikai.net/で読むことができるとあった。現在は残念ながら公開されていないようである。如水会員なら読むことができるのか不明。

020中井浩一著『大学入試の戦後史――受験地獄から全入時代へ――』(その2)

「第一章 大学全入時代」は前回引用した文章ではじまり,大学全入時代の様相について紹介している。三択問題で触れた私立大学の定員割れ,設置認可制度の規制緩和(事前規制から事後規制へ),志願者を増やした法政大学の例,複数受験回数や大学合同の取り組み,国立大学の生き残り競争,高校の未履修問題などがそれだ。未履修問題への著者の意見――得をしたのは世界史を学習できた高校生だ――は,評者も意見も同じくする。
「第二章 「小論文」入試」では,79年から始められた共通一次試験による大学の偏差値による序列化への対応であったことから,現在も継続して採用している慶應義塾大学と一部を残して撤退した早稲田大学京都大学経済学部の論文入試の例まで触れている。この入試がどのような内容の小論文をかかせるか,また,対策が進んだとしても高校教育にいい影響力を発揮できる小論文は可能であることを提言している。
「第三章 AO入試――SFCの栄光と挫折」では,AO入試の嚆矢である慶応義塾大学SFCアメリカの大学を例に,SFCの問題提起を考察している。サブタイトルにある「栄光と挫折」に著者の意見が集約されている。
「第四章 AO入試の広がり」では,早稲田大学筑波大学九州大学AO入試に触れ,AO入試が研究対象として変化してきたこと,アメリカとは異なる日本的AO入試の可能性に言及している。
「第五章 国大協と文科省」および「第六章 東大と京大」では,まず入試改革をめぐる国大協の組織としての中途半端さとそれを利用した文科省の姿勢とが指摘され,京大の「徹底的に自己チュウであり,強引であり,全体への配慮がない」(193ページ)ことが批判されている。前者については,国立大学が法人化によって文科省から予算的にも運営的にも自立したわけではないことをまずは指摘しておこう。依然として国立大学は文科省のゴーサインなしでは定員一人動かすことができないのだ。後者については,評者も同じ意見をもっており,著者の母校への期待とも受けとめておこう。
「第七章 入試制度改革の歴史」では,これまでの入試制度を整理し,各国立大学が自主的に新たな一期校,二期校制度を作り出せなかった弱点を指摘している。一提案として傾聴に値するが,ただし,「法人化で,もはやその自由をしばれる者は存在しない」(224ページ)ではないことだけは知っておいてほしいと思う。法人化の最終的狙いが大学全体のスクラップ・アンド・ビルドであったことははっきりしているし,自立性が担保されたと見るのは誤っている。また,「教育をバカにし,私学につけをまわした」の見出しがある。この主語ははっきりしない。国大協なのか(そうも読める),文科省なのか(そうも読める)。真意はどうやら国の高等教育政策の批判であることで,あえて主語をボカしたように読んだ。「国立大の法人化で国立大へのコントロールすら利かなくなった」(230ページ)というのも事実と異なる。
「第八章 課題と対策」では,最終的にはアメリカ的入試制度を展望しつつも,課題と対策を「ムラ社会」の存在とそれからの脱却(「未来の立場」)にみる。評者はかねてからセンター試験を資格試験的なものし,そのうえで各大学のアドミッション・ポリシーに対応した入試科目の設定が望ましいと考えている。多くの私立大学が志願者確保のために試験科目を削減してきたこと,他方で国公立大学は受験の複数機会の確保ということで前期・後期(および中期)日程試験の厳守を強いられていることなど課題は多い。
週刊誌ではほぼ定期的に大学特集がある。確実に売れるからだという。本書も多くの読者を得るであろうが,真摯な提言が多く含まれているだけに,とくに多くの大学関係者が反応して欲しい。

019中井浩一著『大学入試の戦後史――受験地獄から全入時代へ――』(その1)

中公新書ラクレ243,275頁,本体価格760円,2007年4月10日

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本書に論評を加える前に大学に関する三択問題を作ってみた。本書でも触れられているものもあるが,大学に関するあなたの常識度をチェックしてみてほしい。2007年度についてはまだ新しいデータが公表されていないので昨2006年度のデータによる。基礎データは文部省学校基本調査や日本私立学校振興・共済事業団資料として公表されている。正解は評者の解説を付して下記に書いておこう。
(1)18歳人口の大学・短大への進学率は? (a)約42% (b)約52% (c)約62%
(2)4年制大学の数はいくらか? (a)約350大学 (b)約550大学 (c)約750大学
(3)4年制の国立大学の数はいくらか? (a)67大学 (b)87大学 (c)107大学
(4)短期大学の数はいくらか? (a)約470短大 (b)約670短大 (c)約870短大
(5)4年制私立大学の定員割れはどのくらいか? (a)約3割 (b)約4割 (c)約5割
(6)4年制私立大学の推薦・AO入試など一般選抜試験によらない入学者はどのくらい? (a)約25% (b)約35% (c)約45%
(7)昨年度入試で国立・私立大学間である逆転現象が起きた。それはなにか? (a)定員充足率 (b)受験率 (c)歩留まり率

正解および解説
(1)(b) 各種統計の「18歳人口」とは,3年前の中学校卒業者および中等高等学校前期課程(中高一貫校の中学段階)修了者である。昨年度の進学率は男53.6%,女51.0%,計52.3%である。進学率が全体で50%を超えたのは2005年度,女が50%を超えたのは2006年度である。ちなみに,大学だけの進学率は45.5%である。
(2)(c) 正確には744大学。国公私立の内訳については次問の解説参照。
(3)(b) 内訳は,国立87,公立89,私立568。周知のように日本の大学は圧倒的に私立に負っている。折からの規制緩和大学版とともにこの総数は今でも増加傾向にある。18歳人口は1966年と1992年をピークに減少傾向であり,2007年は全入時代(志願者数と大学定員数がほぼ一致することを指す)と言われてきた。2007年入試の結果からは実際の全入時代は早ければ来年度,遅ければ数年先ではないかと予測されている。以下が年度ごとの詳細(文科省学校基本調査より)だ。1955年の3.2倍,65年の2.3倍,75年の1.8倍もの大学数となっている。しかも,2000年代に入っても増加し続けている。

年度 国立 公立 私立 総計
1955 72 34 122 228
1965 73 35 209 317
1975 81 34 305 420
1985 95 34 331 460
1995 98 52 415 565
2000 99 72 478 649
2001 99 74 496 669
2002 99 75 512 686
2003 100 76 526 702
2004 87 80 542 709
2005 87 86 553 726
2006 87 89 568 744

(4)(a) 国立8,公立40,私立421の計469短大である。短大数は1995年度の国立36,公立60,私立500の計596をピークに減少に転じている。4年制大学への転換による受験生の確保が底流にあり,前問の4年制大学増加の一因でもある。以下が年度ごとの詳細(文科省学校基本調査より)。ご覧の通り,短大は今や斜陽産業になりつつある。

年度 国立 公立 私立 総計
1955 17 43 204 264
1965 28 40 301 369
1975 31 48 434 513
1985 37 51 455 543
1995 36 60 500 596
2000 20 55 497 572
2001 19 51 489 559
2002 16 50 475 541
2003 13 49 463 525
2004 12 45 451 508
2005 10 42 428 480
2006 8 40 421 469

(5)(b) 568大学中222大学,40.4%が定員割れだった。前年度比62増であり,今年度の結果が注目されている。国立大学は法人化以降(運営費交付金の算定基盤)も定員充足が義務化されており,特別な事情がないかぎり,定員充足まで募集業務を繰り返すことになっている。第2次募集の実施の例がかつて数校あるが,国立大学の定員割れは現在まで存在しない。また,国立大学のライセンス学部と言われる医・歯・薬・教育などの各学部・学科では定員の厳守が原則である。下回ることはもちろん上回ってもダメなのだ。
(6)(c) 私立大学への入学者472,253人中211,703人(44.83%)が推薦等による入学者である。つまり,一般選抜試験による入学者は全体の55%である。さらにいえば偏差値による私立大学ランキングは約半数の入学者に当てはまるにすぎないのだ。国公立大学の場合,推薦・AO入試等による入学者が現在13.9%にとどまっており,国大協はこの率を最大50%まで認める方針を出した。
(7)(a) 国立107.9% (入学者数104,000人/定員数96,000人),私立:107.2% (入学者数472,000人/定員数440,000人) であり,1955年以降初めて逆転した。国立大学が法人化され(敢えて受身で表現しておく),独立採算制を考慮した入学料・授業料収入の増大が主因である(法人化以前はそのまま国庫に入った。法人化以降は法人の自主財源になる)。今年度入試にあたっては,定員を大きく上回る入学者にならないよう文科省から「強い指導」があった。今年度もこの事態が続くことになれば私立大学の経営を圧迫するというのがその理由だ。私立大学財政はその約7〜8割を学生納付金に依存している。
みなさんは何問できただろうか。7問中5問正解でかなりの大学通といえるだろう。もちろん大学関係者なら全問正解が標準だ。
さて,こうした事情をふまえて本書を論評してみる。本書は刺激的な文章から始まっている。

「私たちは大学全入時代を迎えた。今や入試に独自性を発揮できるのは,最難関の一部私大と国立大だけになっているようだ。学力選抜が有効なのはMARCH(明治,青山学院,立教,中央,法政)以上であり,学生を選べるのはぎりぎり日東駒専(日本,東洋,駒澤,専修)レベルまで,と言われる。あとの大学は『学生に来ていただく』のだから入試は形骸化するのが当たり前だ。もはや大学が選抜するのではなく,選抜される時代になっている」(12頁)。

本書は,引用に示された入試の最前線を紹介し,私立大学と国立大学における小論文とAO入試を中心とした入試改革の歴史と現状を分析している。最後に,大学の未来の立場を提言している。以下,詳しく見てみよう。(未完。次稿につづく)

018内田樹著『下流志向――学ばない子どもたち 働かない若者たち――』

書誌情報:講談社,231頁,本体価格1,400円,2007年1月30日

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

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キャンパス内の禁煙スペースで喫煙している学生に注意をしたら,タバコをもみ消し,「(今は)吸っていない」と言う(本書でも紹介されているし,評者も最近よく経験している)。初めて研究室に来た学生が本棚の本を見て,「全部読んだんですか」と必ず聞くのも,受験を中心として「有用な」読書経験しかなくみずからを消費主体としてきた彼らにとって素直な驚きなのだろう(評者がここ数年実感していることだ。学生だけでなく,最近は社会人からも聞くことが多くなった)。
学びからの逃走(第1章)と労働からの逃走(第3章)は,主体である子どもたちや若者たちの消費者主権としての振る舞いであり,経済合理性にもとづく不快貨幣の交換だ。著者が「心理的背景,イデオロギー的な構造」といい,みずからの「創見」ではないとしているが,彼らの深層分析としてはあたっていると思う。また,この社会をリスク社会であると認める人々だけがリスクを引き受け,リスク社会ではないかのようにふるまう人々はリスクヘッジすることができるとするリスク社会論(第2章)は,言外にセーフティ・ネットの構築を含意している。
それでは,労働主体の消費主体への転化は,どのようにして実現したのだろうか。本書では,消費主体への転化が前提になっているので,残念ながらこの点は読み取ることができなかった。空間モデルとしての等価交換論――マルクスの言葉でいえば,使用価値の実現と価値の実現との時間的乖離――からは最近の消費主体の登場は説明できない。なぜなら,「ペイ・オン・デリバリーが等価交換の原則」(135ページ)は資本主義でさらに開花した商品生産の特徴だからだ。伝統的経済学は消費者主権論を前提にした理論展開だといわれることがある。消費者のオファーによって供給者が必要な商品を生産するという理論モデルだ。このモデルなら最初から説明は可能だ。
ここまで書いて気がついたことがある。社会に蔓延する「何の役に立つのか?」という問いを,著者は功利,功利的と呼んでいる。これこそ,19世紀のマルクスが問題にしていたことである。労働する主体の実現はいかにして可能か。ふたたび問題はマルクスの問いに戻ったようだ。
第4章の「質疑応答」は本書に必要なことだろうか。70ページ(本書のほぼ3分の1)もの追加は,本作りの安易さを憶測してしまった。5時間の講演・質疑応答の再現が本書の目的ではないだろう。妄言多謝。

017リカードウ研究書2冊(その2)

書誌情報:(1)佐藤滋正著『リカードウ価格論の研究』八千代出版,286頁,本体価格3,800円,2006年10月30日,asin:4842914068,(2)福田進治著『リカードの経済理論――価値・分配・成長の比較静学/動学分析――』日本経済評論社,280頁,本体価格4,800円,2006年12月15日,asin:481881895X

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両書は,たまたま同時期に刊行されたものであって,前回触れた従前のリカードウ研究へのアプローチ,方法および対象を異にしている。
まず,佐藤は,リカードウ『経済学原理 On the Principles of Political Economy, and Taxation』(1817-21,前記『全集』第1巻:以下『原理』と略)のうち,後半部分の「課税論諸章」(第8-18章)と「論争的諸章」(第19-32章)を対象に,スミス価格論との相違を執拗に追跡したものだ。なかでも,佐藤が長らく手がけてきた地代および地代論の理解をキーワードに再読している。この意味では,佐藤は,それほどリカード研究史を意識していないし(本書の否定的評価ではない),徹底したリカードウのミクロ分析を志向したといってよい。
これに対し,福田は,主として『原理』の前半部分の「理論的諸章」(第1-7章)を対象に,リカード研究史を十分意識しながら自身のオリジナリティーを伝統的な文献的研究と現代的な数学的研究によって価格決定論,所得分配論および経済成長論に求めて検証している。福田は,リカードウ経済理論の現代性を意識しながら,スラッファおよびポスト・ケインジアンの批判的継承を企図している。
このアプローチおよび研究史へのスタンスの相違は,両著の構成にも反映されている。佐藤は,『原理』後半部分をほぼ各章ごとに分析し,リカードウにおける当時の社会状況からどのような法則を抽出しようとしたのかを追究する。リカードウが当時の社会状況をどのように見て,どのように理論化したのか。佐藤の議論はこのようにリカードウの視線に収斂していく。佐藤の議論は,一見細かい分析をしているようで理論書にとどまっていないにおいを感じさせる。時論の書『原理』の政策的および論争的各章を扱ったからであろう。
福田は,時論家リカードウを相対化しつつ現代からリカードウ理論をすくい上げようとする。福田の言葉では「理論的貢献」と「歴史的事実」にあたり,両者をほどほどに吸収しつつ,「理論的貢献」を確定しようとしている。副題「価値・分配・成長の比較静学/動学分析」は,福田の「理論的貢献」の意思表明だ。現代的関心からリカードウを再読・再検討する関心をもつなら,福田著作は最適かもしれない。

016リカードウ研究書2冊(その1)

書誌情報:(1)佐藤滋正著『リカードウ価格論の研究』八千代出版,286頁,本体価格3,800円,2006年10月30日,

リカードウ価格論の研究

リカードウ価格論の研究

(2)福田進治著『リカードの経済理論――価値・分配・成長の比較静学/動学分析――』日本経済評論社,280頁,本体価格4,800円,2006年12月15日,
リカードの経済理論―価値・分配・成長の比較静学分析/動学分析

リカードの経済理論―価値・分配・成長の比較静学分析/動学分析

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David Ricardo (1772-1823) に関する研究書が2冊相次いで出版された。Ricardoはリカードウあるいはリカードとも表記され,どちらを使うかは好みによる。さて,そのリカードウ(評者はこちらを好む)研究は,かつてはスミス研究と並んで日本の経済学史研究の花形だった。マルクス研究が禁圧された時代には迂回的に読まれたし,学問・思想の自由が実現して以降はマルクス理論(とくに『剰余価値学説史』)を基準に振り返られた。その後,リカードウの時代の2つの課題である議会改革と穀物法に格闘した時論家として再評価される研究史をもつ。
ピエロ・スラッファ(Piero Sraffa)による『リカードウ全集 The Works and Correspondence of David Ricardo』(1951-73,11 vols, Cambridge University Press,邦訳は雄松堂より)の刊行は,現代にいたる新しいリカードウ研究の嚆矢となった。スラッファは,リカードウ理論を物量体系によって特徴づけ,価値と分配の分析の理論体系として再解釈した。スラッファ革命 (Sraffian Revolution) とも称される問題提起は,『商品による商品の生産』(1960)で明確に示された(古典派再評価はのちの欧米での「マルクスルネサンス」に繋がる)。同時に,これはポスト・ケインジアンの議論に継承される。パシネッティ (Luigi Pasinetti) の経済成長分析の数学的定式もこの延長ととらえられよう。
これに対し,ホランダー (Samuel Hollandar) の『リカードの経済学 The Economics of David Ricardo』(1979,菱山・山下監訳,全2巻,1998,日本経済評論社,上巻asin:4818810339,下巻asin:4818810347)は,リカードウ理論をまずは諸変数の相互依存関係にもとづく同時決定を主張し,蓄積の原理を主張した。ホランダーの提起は,新古典派の先駆としてのリカードウ再評価に連なり,また,ヒックス(Hicks),サミュエルソン(Samuelson),森嶋らの数学的定式化をもたらした。
ピーチ(Peach)は,Interpreting Ricardo, Cambridge University Press, 1993において,スラッファおよびホランダーの見解をしりぞけ,リカードウ労働価値論と利潤率の傾向的低下の意義をあらためて提起した。
このようなリカード研究史に新著2冊はどのように位置づけることができるだろうか。次稿で論じてみたい。(この稿つづく)

015二宮厚美著『ジェンダー平等の経済学――男女の発達を担う新福祉国家へ――』

書誌情報:新日本出版社,397頁,本体価格2,400円,2006年10月30日

ジェンダー平等の経済学―男女の発達を担う福祉国家へ

ジェンダー平等の経済学―男女の発達を担う福祉国家へ

初出:新日本出版社『経済』第137号,2007年2月1日(掲載誌は縦書きのため,数字などは漢数字のままにしている。)

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著者は,新自由主義を徹底して批判した『現代資本主義と新自由主義の暴走』(新日本出版社,一九九九年,asin:4406026975)と新自由主義に代わる新しい国家像を提示した『日本経済の危機と新福祉国家への道』(同右,二〇〇二年,asin:4406028579)を上梓した。本書は,この二書の成果を凝縮するとともに,ふたたび新自由主義批判と新福祉国家論をジェンダー論から詳述した作品である。著者は,前二書で現代日本で進行する問題を鋭くえぐった。それをふまえて,もともと家族・発達問題に大きな関心を払ってきた著者がもっとも得意とするフィールドに立ち戻って人間発達論としてジェンダー論を構築しようとした一書である。著者は,ジェンダー論に巣くう新自由主義批判から筆を起こし,ジェンダー論の整理と論点昇華を経て,ジェンダー平等の経済学を展開している。本書は,ジェンダー論の諸論点に深く切り込みつつも,それだけでなくジェンダー・エクィティを実現するための具体的見取り図を明確にしている。論争的かつ建設的書物といってもいいだろう。
まず著者が課題とした諸点を本書の構成とともに整理しておこう。(一)ジェンダー論に入り込んだ「新自由主義ウィルス」を駆除すべく,新自由主義ジェンダー論を批判すること。「第一章 現代日本ジェンダーをめぐる諸潮流と対抗関係」は,ジェンダー論の構図を三潮流(エクィティ派,新自由主義派,バックラッシュ派)にまとめ,エクィティ派の立場から新自由主義を乗り越えるための論点(資本主義とジェンダー,近代家族とジェンダー)とジェンダー論の基礎的概念とを提示する。(二)ジェンダー論の基本に立ち返り,これまでのジェンダー論を再検討すること。「第二章 ジェンダー論の基礎的概念と近代家父長制」と「第三章 資本主義のもとでの近代家族と労働者家族」の両章は,ジェンダー論の要になる家父長制,家族,家事労働,差別などを取り上げ,従来のジェンダー論を批判的に読み解く。(三)著者のジェンダー論を積極的に詳述すること。「第四章 家事労働とサービス労働」と「「第五章 ジェンダー視点の社会政策と資本主義の解剖」の両章は,これまでのジェンダー論で論点として浮かび上がった概念を整理し,同時に経済学的理論化を試みている。(四)真のジェンダー平等を実現する新福祉国家を展望すること。「第六章 男女平等の経済学と史的唯物論」は,近代的労働者家族を前提に人間発達の保障論とジェンダー平等とを結びつけ,新福祉国家の道を開示している。
つぎに,本書の内容についていくつかの項目に分けて特徴とともにコメントを付そうと思う。
ジェンダー論の基礎的カテゴリーについて。支配と差別,階級関係と性関係,属性差別と非属性差別,自由と平等などジェンダー論の基礎的な概念・範疇の区別を重視している。著者は,資本主義のもつ「属性的中立性」を指摘する。これは,あまたのジェンダー論が実は厳密な概念を積み重ねたものになっていないという著者の問題意識の延長にある。新自由主義ジェンダー論に対峙できるジェンダー論が必要だとする立場からのジェンダー論の再構成は,評者も全面的に賛成する。
ジェンダー・エクィティを実現するためのより具体的な概念の検討について。近代家族と労働者家族,家事労働とサービス労働,これらは家父長制的性支配・差別と資本主義的性支配・差別をどのように理解するかというジェンダー論の根幹に関係している。著者は,現代社会の性差別の根源を家父長制にではなく資本主義そのものにもとめ,資本主義と家父長制とを「衝突・矛盾」および「親和・共犯」とまとめる。さらに,家事労働論を中心に「経済学とジェンダー論との不幸な別離」から「経済学とジェンダー論の結婚」を論じる。物質代謝労働と精神代謝労働,サービス労働と物質的生産労働,生産的労働と不生産的労働,生産と消費など従来の経済学でも問題にされてきた論点を整理し,家事労働は無償労働ではないこと,消費世界において独自性をもつこと,コミュニケーション関係をもつ精神代謝労働(的性格)をもつことを明らかにする。すぐれて論争的であり,本書の核心部分である。冒頭触れたように本書を人間発達論としてのジェンダー論としたのはここによる。
労働者家族の家事労働は,コミュニケーション労働としての性格をもっている。著者は,家事労働をさらに,コミュニケーション労働として社会化すること,権利保障労働として社会化すること,現物給付原則のもとにおくことを提言する。なるほど,著者が力説するように,近代家族は家父長制とは相容れないし,人間発達の最重要領域である。本書ではこの点に焦点を絞ったがゆえに,評者のみるところ,個人の人間発達との関係がやや見えにくい。また,社会化する論理が先行し,福祉レジームの成立に委ねられた感が強い。ただ,これら人間発達論の見地からする著者の立論はジェンダー論固有の弱点と展望を示したことは間違いない。
新しい福祉レジームの構想について。エスピン−アンデルセンの福祉レジーム概念を援用して,労働者家族そのものを発展的にとらえ,かつ,家族の新しい可能性の担い手として福祉国家を位置づけている。現代福祉国家は,(一)児童手当,各種年金,生活扶助,最低賃金などの現金給付型の所得保障,(二)教育,福祉,医療などの現物給付型の社会サービス保障,(三)環境保全規制,労働安全基準,建築基準,解雇規制,男女平等ルールなどの生存権保障のための公的ルール,規制・基準の体系,を構成するとする。著者によれば,福祉国家は現代労働者家族の自由と平等を発展させる「助産婦」である。ジェンダー・エクィティを達成するためには,「非属性的であるがなお属人的な性格をもったこの資本主義的差別を克服する」ことが必要である。とすれば,この新福祉国家とは資本主義なのか,あるいは資本主義を超えた非資本主義的なものなのだろうか。「ジェンダー平等の新福祉国家論」の提唱は,二十一世紀の国家論を惹起することになるだろう。
マルクス経済学に立脚し,また発展させる問題意識で編まれたジェンダー論は意外なほど少ない。本書は,著者にして書かれ得た最良のジェンダー論,人間発達論といえる。同時に,本書は,現在進行中の格差構造の理解と克服にも示唆に富んでいる。新自由主義との対決のみならず,男女平等を含む社会全体の平等化の達成が焦眉の課題だからである。