255コルナイ・ヤーノシュ著(盛田常夫訳)『コルナイ・ヤーノシュ自伝――思索する力を得て――』

書誌情報:日本評論社,xviii+417+42頁,本体価格4,700円,2006年6月20日

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コルナイ教授来日にあわせてようやく読了した。各所に散りばめられたコルナイの警句が胸をうつ。
なぜ,ハンガリー共産党に入ったか。「ユダヤ人として被ったトラウマ」が共産党へ接近させ,共産党への接近がユダヤアイデンティティを冬眠させたという。「敵に対しては不遜を,違った見解も持つ者に対しては見下ろす傲慢は,マルクスに始まり,レーニンによって受け継がれ,スターリンによって極められた伝統なのだ。スターリンにいたっては,敵を責めるだけだなく,頭を打ち抜くのである。」(128ページ)
もっともこれはマルクスの学問的追究の意義を否定していない。「マルクスは経済・社会・政治制度に固有な独自の機能不全を認識・説明する手法を開拓した大学者の一人」(245ページ)としているように,ハンガリーにおける共産党独裁時代の秘密警察の執拗な身辺調査を経験したコルナイの赤裸々な告白である。この自伝にはこうしたマルクス主義を標榜したハンガリーへの根底からの批判的見地とハンガリー人としてのこだわりが随所にある。社会主義体制と市場とは両立しえないとのコルナイの主張は彼のハンガリーでの政治的経験と無縁ではない。「ソフトな予算制約シンドローム」やランゲ理論批判もこの線上にあるだろう。
ロシアと中国における改革論は多くをコルナイ理論に依っていた。コルナイ理論は社会主義の現状から出発して,市場的社会主義の不可能性を論じ,政治構造・所有関係・調整メカニズムを指標として資本主義への体制転換を展望していた。コルナイはなんどか新古典派ではないことを述べてはいるが,コルナイ理論が新古典派と同じかどうかを論じても生産的ではないだろう。社会主義体制が存続するかぎり,コルナイ理論の核をなす要素が成立しないことを暗示し,体制転換論の提起にこそコルナイの問題意識が凝縮されている。もちろん,中央集権的計画化はコルナイ-リプタークモデルで示したように,計画化思想を捨てているのではない。指令で動く計画ではない代替的発展経路の計算は,資本主義内でもありうるとしている。
どん底から抜け出す道は分配ではなく,生産の改革に求めなければならない」(241ページ)とは現代日本にもあてはまることだろう。

(追記:アップしてから,当然のことながらいくつかの論評があることを知った。後出しにご容赦。)