288小坂井敏晶著『責任という虚構』

書誌情報:東京大学出版会,x+263+23頁,本体価格3,500円,2008年7月30日発行

責任という虚構

責任という虚構

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どこか既読感があった。ひとつは社会の分業構造のなかで兵器生産への関わりが希薄化される現代日本の産業を凝視した本(島本慈子著『ルポ 労働と戦争――この国のいまと未来――』→https://akamac.hatenablog.com/entry/20090113/1231856124),いまひとつは集団の構成員全員が同意しているわけではないのに疑問を抱くのはあたかも自分だけのような錯覚に陥る例を出してマルクスの概念装置を説明した本(松尾匡著『「はだかの王様」の経済学――現代人のためのマルクス再入門――』→https://akamac.hatenablog.com/entry/20080803/1217769650),である。
本書のタイトルが示すように,責任(そして一般的に言う道徳観念)は社会的に生み出される虚構(フィクション)である,「人間を超える<外部>から人間を縛る存在として感知される」ものというのが著者の主張だ。同時に,そうであるがゆえに虚構の恣意性・虚構性が隠蔽されなければならない。
責任を負うという観念は人間は主体的存在であることを前提としている。著者は,社会心理学と大脳生理学の知見をもとに人間の自立性に疑問を呈する。責任概念を支える自立性はもともと脆弱であり,人間は根源的には他律性をもつとする。
そのうえで,ホロコーストを再考し,ひとりヒトラーの狂気によって600万人ものユダヤ人が虐殺されたわけではないこと,官僚機構に組み込まれれば普通の人間でも状況次第で残虐行為にいたる過程と責任転嫁の仕組みを提示する。アーレント政治学的解釈,ミルグラム社会心理学的実証研究,ヒルバーグの近代的官僚機構によるとした大量殺戮の解釈,ブラウニングによる歴史分析にも言及している。
ホロコースト戦争犯罪のような悪と同様に,死刑囚を死刑する心理機制も殺人にともなう罪悪感が転嫁される点では同一とし,「官僚制的分業がなければ死刑制度の維持はとうてい不可能」であり,「無責任体制のおかげで死刑制度が可能」だとする。死刑制度の分析は,「心理的負担を減らす手段さえ採り入れれば誰でもナチスの犯罪に加担する危険性を同時に意味するのではないか」と結ぶ。
冤罪は,法制度や捜査員・裁判員の資質だけが問題なのでもなく,「個人の意志を超えた次元で集団行為が自己運動を展開する」ことから生じるとする。
ホロコースト,死刑制度,冤罪はいわば導入で,自由意志による行為の結果としての責任と虚構の問題にいよいよ言及する。人間の意志の所在はある行為と結びつけ,事後的に確認するという手続きをとる。意志とはモノではなくコトであり,「社会秩序という意味構造の中に行為を位置づけ辻褄合わせをする」。社会慣習としての責任がこれだ。自由→責任,というのが近代的道徳観や刑法理念とされるが,まったく逆で,「責任者を見つけなければならないから,つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言する」というわけである。この意味で責任は虚構なのだ。
それでは責任の正体はなにか。責任が問われるのは行為の因果律によってではない。個人が主体的に行為するのではないが,ある行為にたいして自由意志で行為したと「社会秩序維持装置」「社会装置」が作動することでわれわれの世界は支えられている。さらに,この社会秩序は,われわれの責任・道徳・経済市場・宗教・流行・言語などの集団現象としてあらわれ,「いったん動き出すと当事者の意志を離れて自立運動を始める」。いったん人間社会内部に成立しながら外部に位置する超越的存在と感知される。
「幽霊の正体みたり枯れ尾花」。神の死によって成立した近代は,こうしてあらたに外部に虚構を作り出す。道徳や責任が人間の意志から自律する外部にあるものによって規定されるとする著者の立論は,人間の他者性を前提に規範的思考を排している。「人間の相互作用から集団現象は必ず遊離し,そこに虚構が生まれる。無根拠性・恣意性は必然的に隠蔽される。」なるほど虚構のからくりはわかった。「人間の行動や思考は必ず世界を改革する」その行動や思考こそ問われなければならないとするなら,われわれはふたたび出発点に戻ったにすぎない。