381師弟関係論

高橋哲雄著『先生とはなにか――京都大学師弟物語――』(下記関連エントリー参照)を取り上げたあと,たまたま富士ゼロックスの広報誌『グラフィケーション』(ウェブでは目次のみ→http://www.fujixerox.co.jp/company/public/graphication/)第171号(通巻360号)(2010年11月発行))の特集「師弟関係」を読んだ。
佐高信「師弟関係を考える」では,虚子と秋桜子,波郷の引導を渡す師弟関係との対比で,師・久野収を「弟子が自らを越えていくことを喜ぶ師」だったかもしれないと結ぶ。
大島洋「教育者としての大辻清司」は,大辻とハリー・キャラハンのエピソードを紹介し,何も教えてくれない先生をいい先生と呼び,教えない教育もありえるとする。これはじつはまったく教えていないのではない。教育のドイツ語が示しているように,弟子からなにかを引き出すところに核心を見ているのだろう。
塩野米松「技術伝承と師弟」は大工の徒弟制度から技の伝承と人間の育成の両方を見て取る。「隠し事も,いい振りも,見栄も,嘘も皆皮を剥がされる。その上で師匠のようになる。師匠の感覚を自分に移す。それが修業なのである」。宮大工でも瓦屋でも左官屋でも檜皮屋根葺きでも10年ほどの修業期間が必要だという。4年間や6年間で学士力やら社会人基礎力やらを身に着けようなどとはそもそも教育なのかと思ったりする。徒弟制度の現代的復権を主張する学習理論も肯ける。
鬼海弘雄福田定良さんと私」は,映画の話や雑談を通じて「人生でいちばん贅沢なあそびは表現」であることを知り,さまざまな職業を経て写真家になった経緯を綴る。遠洋マグロ船で一航海だけの見習い漁師になったときの蕎麦屋でのふたりだけの壮行会が印象的だ。
玄田有史「師を語る――石川経夫が生きていたら――」は,51歳で早世した師から効率的でかつ公正な社会の仕組みに経済学の可能性があることを学んだとし,「人間に格はない」――玄田の同名の著書がある(ミネルヴァ書房,2008年3月,[isbn:9784623056224])――という師の言葉と難解なことへの挑戦の意味を紹介する。
インタビュー・名取弘文「師はどこにいるかわからない」は,「生徒の邪魔にならない教師」を理想とした経験から,こども時代や学生時代にぱっとしなくても思わぬ活躍をすることもある,いまだけを見て判断するなと説く。師はどこにいるかわからないが,「先生たちの生き方だけは覚えている」という。なるほどこれも教育にちがいない。
「現代科学の見方・読み方」の連載でも池内了が「科学者の師弟関係」を論じている。科学研究では実験の段取りなどの手仕事の側面と想像力や発想という無形の能力開発の側面があり,修業時代の師弟関係がものをいう。寺田寅彦湯川秀樹坂田昌一,林忠四郎の例を挙げ,修業時代の必要性を強調している。恩師の背中を見て育つ,見守るだけだった,手仕事を鍛錬するなどスタイルの違いはあれ,知らない間にさまざまなことを学ぶことこそ修業というわけである。「教授は資金獲得のための書類作りや会議に追われて院生と接する機会が少なくなり,論文生産の実を上げるために分業するようになって,若手研究者は問題全体を見渡すことができなくなっている」。
期せずして,教育は手間暇かけないといけないということでは共通しそうだ。