404松山・長崎キリシタン流謫碑

評者宅のすぐ近くに「カトリック松山墓地」という区画があり,「浦上キリシタン流配事件」(キリシタン弾圧のいわゆる「浦上四番崩れ」のこと)で松山に流配されこの地で亡くなったキリシタンを偲ぶ碑がある(参照→家近良樹著『浦上キリシタン流配事件――キリスト教解禁への道――』吉川弘文館,1998年1月,[isbn:9784642054348])。
キリスト教弾圧は天正年間(1587年・天正15)から明治(1873年明治6年)まで続き,幕末に大浦天主堂が建てられたのを機に,キリシタンは信仰を表明した。明治新政府は3770名を捕らえ,西日本の22藩に流配したのがこの事件である。
鎌田佳子「浦上村キリシタン流配事件――大和郡山藩の事例――」(『立命館文學』第612号,2009年6月,pdfファイル)によると,流配人人数は,金沢(515),名古屋(375),鹿児島(375),山口(297),和歌山(281),広島(177),鳥取(155),津和野(153),岡山(117),高知(116),徳島(111),福山(96),松江(88),松山(86),郡山(86),高松(51),大聖寺(50),姫路(48),富山(33),合計3371名である(13ページ)。
松山では三津口築山(現六軒家町)にあった牢に流配者を収容し,そのうち8名が「悪疫又ハ牢苦ノ為メ」亡くなった。現在の墓地近くにあった処刑場に埋葬された。
「長崎キリシタン流謫碑」と大きく刻み,左側・側面・右側には碑文がある。台石に死者の名前8名(名前から男6,女2か?)を読める。幼いときに両親とともに松山流配を経験した山口宅助神父(長崎県諫早教会)が1937年2月にこの碑を建てた。碑文などの解説には「一九九四年一月カトリック聖ドミニコ修道会」とある。
城山の西に位置する評者宅あたりは墓地が多い。かつて処刑場があったこともその理由だろう。聖ドミニコ修道会のロザリオ管区によってカトリック・ミッション・スクールとして創立された愛光学園もすぐ近くだ。「神様の愛に満ち溢れた,深い知識と高い徳性で光輝く生徒」たちは知っているかどうか。
碑文は以下のようだ。

明治元年(AD一八六八)十月吾々カトリック教徒三千余名流刑ニ処セラル吾一行百餘名ハ長崎ヨリ帆船ニ乗シ風波ト闘ヒ同年十二月漸ク三津ケ濱ニ上陸ス爾来三津口御築山ノ牢ニアルコト三年有余此間悪疫又ハ牢苦ノ為メ永逝スル者少ナカラスト雖モ皆殉教ノ栄ヲ喜ビ従容死ニ就ク明治五年三月赦免令ノ発布アルヤ吾一行ハ逝ヒテ帰ラサル彼等ニ断チ難キ別レヲ告ケ老幼ノ地ヲ相顧ミテ去リ八幡ケ濱ニ出テ府内ニ渡リ徒歩浦上ニ帰ル余今七十四歳夢ビ忘レサル松山ヲ昨年訪ヒ今亦感無量尚ハ英霊安カレ茲ニ名ヲ勒シテ永ニ傳ヘン
昭和十二年(AD一九三七)二月
山口宅助 外有志一同