761マイケル・J・サンデル著(林芳紀・伊吹友秀訳)『完全な人間を目指さなくてもよい理由――遺伝子操作とエンハンスメントの論理――』

書誌情報:ナカニシヤ出版,x+194頁,本体価格1,800円,2010年10月13日発行

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本書で扱っている生命倫理学の「エンハンスメント」――「健康の維持や回復に必要とされる以上に,人間の形態や機能を改善することを目指した介入」(訳者解題から孫引き,Eric T.Juengst の著書から)――は,広義では予備校教育やスポーツの各種トレーニングも意味するという。かつて日本の卓球が強かった時代,中国では日本選手のダミーを育成して練習し,打倒日本を果たしたことがある。そのダミーがダミーを脱皮して世界チャンピオンになったこともある。この例はクローニングやデザイナー・チルドレンや遺伝子操作ではないが,日本選手を倒すという「プロメテウス的な熱望」(30ページ)であることには変わりがない。「自然な才能の涵養・発揮を尊ぶ人間らしい活動としてのスポーツ」(32-3ページ)からみればダミーとして育成された卓球選手は「エンハンスメント」とは別の問題を提起することになる。
EPOの注入や遺伝子改造とともに「高地ハウス」も競技者のパフォーマンスに与える影響という点では同じである。アメフト選手の体重増加につながる栄養管理(規制対象外のサプリメントと袋一杯のチーズバーガーを食う!)が「エンハンスメント」だとすれば,一日二食のちゃんこ鍋と丼飯を食らう相撲取りも「エンハンスメント」と紙一重だ。「自然な才能や天賦の才」と身体的「エンハンスメント」との境界はなかなか難しい。
本書は生命倫理を考える本であってスポーツを中心に論じているわけではない。「被贈与性」を強調し,スポーツと見世物との違いに集約し,「自然な才能や天賦の才」に帰着させていることでは「エンハンスメント」を考える絶好の場面ではある。「エンハンスメント」には道徳が連なり,かつ多様な解釈を許容するという主張は理解できた。
最初に「訳者解題」(林)を読んだ。本書の要約としても,背景理解にも役立つ。