1640安室知著『日本民俗分布論——民俗地図のリテラシー——』

書誌情報:慶友社,X+267頁,本体価格9,000円,2022年2月24日発行

かつて聞きかじった柳田国男の方言周圏論にもとづいて卓球ブラジル代表選手などが日本式ペンラケット(日ペン)を使っていることについて触れたことがあった(論じるまでにはいたっておらずごく印象的な雑感にとどまっている。関連エントリー「日ペン周圏論」参照)。本書は卓球の話ではない。本格的な民俗学の研究書で,民族分布を手がかりにした民族文化の地域性とその手法として民族地図の有効性を多角的に論じている。
ひとつのポイントは,柳田国男の周圏論の中心となる蝸牛,トンボ,海女,頭上運搬法などの民俗学理論の批判的検討である。柳田の著書の改定を追い,周圏論を主張した蝸牛論から分布図を削除したうえで「民俗自称の全般に適用可能なものとする周圏論の一般理論化を諦め」(80ページ),周圏論を国語に限定した言語現象として再提示したとする。柳田理論の検討に対比されるのは動物名彙を用いて民俗分布に関する先駆的研究者渋沢敬三である。「日本地図を用いた民俗分布研究については,柳田は動植物名彙という限定を解き放ち,民俗文化のルーツという文脈に視野を転換するとき「沖縄の発見」がなされたが,漁業史の解明が主目的になる渋沢の場合にはそうした視野の転換は必要なかった。それゆえに北海道は組み入れても沖縄を除外することに対して,渋沢の中で矛盾が芽生えることはなかったといえる」(86ページ)。
それとともに,民俗事象の分布を図化する発想を言語地図に落とし込んだ柳田から継承し,民俗地図の有効性を論じるのがもうひとつのポイントである。「民俗地図とは,民俗地図の地理的分布を地図上に示すこと,およびそうして作製された分布図のこと」(125ページ)である。柳田が描いた10点の民俗地図から3類型(分布図,領域図,線型図)を抽出しているのは著者の創案である。
著者はいくつかの民俗地図を重ね複合的な視点で長野県を事例に具体化を試み,松本平・佐久平ラインによって,以北の単一生業志向(稲作へ特化した社会)と以南の複合生業志向(多生業が成立する社会)の民俗文化・民俗基盤を発見する。『長野県史民俗編(資料編)』や『長野県統計書』などによって地域差から民俗事象の時間的変遷をたどり,正月のモノツクリと年取魚を例に新しい解釈を加えている。年取魚の伝承にある「金持ちはブリ,普通の家はサケ,貧乏人はイワシ」のヒエラルキーを生み出したサケ優越地からサケ・ブリ混在地へと変わっていく過程を観察している。
日本には1990年時点で公刊されたものだけで5000を超える民族誌が存在するが,公刊されたものはごく一部で,多くは未利用だったり所在不明になってしまうことが多いという。新しい民俗分布論が描かれる可能性がまだあるのだ。