279竹内洋著『学問の下流化』

書誌情報:中央公論新社,vi+302頁,本体価格1,900円,2008年10月10日発行

学問の下流化

学問の下流化

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ここ数年(古いもので2000年)のエッセイ,書評,評論を「学問の下流化」としてまとめたもの。「単読(一ジャンル)系以上,雑読系未満読書人」(290ページ)の著者による本書は,それゆえタイトルの「下流化」はかならずしも本書の内容を凝縮してはいない。そのつもりで読んだほうがいい。
人文社会科学系学問の危機を「液状化」とか「下流化」とか「オタク化」と呼び,問題提起としてはおもしろい。「学問の下流化」とは,「大衆社会のなかでの学問のポピュラリズム化」(13ページ)をさし,他方,アカデミズム人文社会科学は「飛び地や離れ小島」(12ページ)化し,「専門学会内部,それも一部学会員だけの内輪消費のためだけの研究という自閉化」=「学問のオタク化」(13ページ)なのだという。かつてはジャーナリズムとアカデミズムが重層していた。1980年代のニューアカブームはメディア型人文社会科学を誕生させたが,それは「人格的教養主義でも政治的教養主義でもない,単なる差異化する教養主義」「進歩と成長の歴史主義の崩壊のなかでの最後の徒花教養主義」(187ページ)という。
それでは著者のいう教養とはなにか。戦前の旧制高校教養主義への回帰であり,「現実を懐疑し,理想を求めようとする教育と学生文化」(228ページ)である。「読書を抜きにした近年流行りの教養論は,大衆社会の勉強ノン・エリートに迎合したゆとり教育と同じく,教養ノン・エリートに迎合したゆとり教養論」(230ページ)とあるように,読書,本に教養の拠り所をもとめている。
学問下流化論も教養論も,「「高いとおもっているが低いのは」,いまの大学教授の教養」(231ページ)のせいかすんなり頭に入らない。「下流新書(愚本)栄えて読者の読解力がどんどん落ちる(愚民)時代」(270ページ)とはよく言ったものだ。浅羽通明は「化石化した啓蒙知識人や大学知識人とは異なった,躍動感に溢れる大道芸人型知識人」(229ページ)。学問論や読書論に礫を投げたのが浅羽だったのだろう。こうなると著者の教養論がますます解せなくなる。
「右翼,左翼にとどまらず思想はユートピア性を失えば,思想ではなくなる」(98ページ)。けだし,名言だ。本書は思想本ではないが,評者は本書にユートピアをまったく感じることができなかった。
とはいっても,評者は著者の本は好きだ。「読書=教養」の信者だから。