401幸徳秋水と『共産党宣言』

きょう1月24日は幸徳秋水が処刑された日である。ちょうど100年になる。日経新聞「春秋」では「世界的にみても先駆的な帝国主義論を出版し,明治政府をこっぴどく批判した。足尾鉱毒事件で田中正造天皇に直訴しようとしたときの直訴状を,下書きした。つとめていた有力新聞が日露戦争の開戦論に転じると,辞職して非戦論を唱え続けた。盟友の堺利彦とともに日本で初めて「共産党宣言」を翻訳した」と書いていた(2011年1月24日付)。郷里の高知・四万十市では秋水復権の動きもある(「秋水没後100年復権に思い」読売新聞→http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20110122-OYT8T00816.htm)。
共産党宣言』が日本で初めて翻訳されたは1904年11月13日付の『平民新聞』第53号における幸徳秋水堺利彦訳によってである。さらにこの翻訳を補完した『社会主義研究』(1906年,第1巻第1号)所収の幸徳/堺訳を底本として,上海で最初の『共産党宣言』中国語訳が上梓される(1920年)。訳者は,中央大学に留学したことがある陳望道(1891〜1977年,言語学者,上海・復旦大学初代学長)である。ここ数年の研究で,秋水が関係した翻訳は中国語訳のみならず日本の翻訳に大きな影響を及ぼしたことが解明されてきている。
共産党宣言』(1848年)の初版初刷刊行後101の異なる言語に翻訳され,ロシア国立社会・政治史文書館には世界各国の77言語,372刊本が保管されていること,思想弾圧する側だった内務省警保局も『共産党宣言』を翻訳していたこと,法政大学大原社会問題研究所は100点前後の『共産党宣言』の刊本(原本,外国語,日本語訳)を保管していること,日本語と中国語の翻訳の異同(とくに「国民」と「民族」)など興味深い事実もある。比較的最近の文献を紹介しておこう。『大原社会問題研究所雑誌』掲載稿はpdfで読むことができる。