424榎本泰子著『上海――多国籍都市の百年――』

書誌情報:中公新書(2030),278頁,本体価格800円,2009年11月25日発行

上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

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1845年に初めてイギリス租界が上海に設置されてからの100年の街の歴史を綴った佳書だ。『楽人の都・上海――近代中国における西洋音楽の受容――』(研文出版,1998年,[isbn:9784876361571]),『上海オーケストラ物語――西洋人音楽家たちの夢――』(春秋社,2006年,[isbn:9784393935088])と中国音楽文化を上海中心に描いてきた著者の「華洋雑居」都市・上海租界論。
租界は本来外国人のための居留地だった。のちに中国人も住むことが認められ,土地税または家屋税を徴収された。上海は共同租界,フランス租界,租界の外側にあって中国の支配下にある華界という3つの異なる権力下にあったことになる。上海は租界という国際都市であることによってアジアにおける貿易と金融の中心地として,また欧米直輸入の入口に位置した。著者の視線は音楽を中心とした文化の受容だけでなく,国際都市・上海の外国人と中国人の生活模様である。それらは,イギリス人の「野望」,アメリカ人の「情熱」,ロシア人の「悲哀」,日本人の「挑戦」,ユダヤ人の「苦難」,そして中国人の「意志」である(括弧は各章のタイトルから)。
共同租界で外国人が所有している土地の大部分はイギリス人のものであった。20世紀初頭で90パーセント,1930年代で78パーセント以上だったという。イギリス人は大英帝国のプライドとライフスタイルをそのまま上海に持ち込み,上流・中産・労働者階級の区別が厳然とあったという。イギリス支配下のインドからも家族帯同の優遇策で多くの人々が定住し,頭に赤いターバンを巻いたシーク教徒で主として交通整理にあたった。イギリス人の租界支配は日本の軍事支配によって終焉を迎える。
アメリカの上海への本格的進出は,第一次世界大戦後である。英米で日本の中国進出を押さえ込むねらいからである。ただ,イギリスが経済的利益を至上としたのにたいし,教育を通じて中国の近代化を促進した功績は大きいと著者はいう。プロテスタント各派がおこなった中国人向け高等教育での英語教育(たとえば聖ジョンズ大学),スポーツ活動の重視は中国知識層のライフスタイルに大きな影響を与えたが,英語を話すことができない尊大な軍人によって息の根を止められる。
租界地・上海の天国と地獄をあらわすのはロシア人とユダヤ人だろう。ロシア革命を嫌って多くのロシア人が上海に流れ着く。一時は日本人,イギリス人に次ぐほどの人数で,生活スタイルや芸術活動で租界文化に大きな影響力をもった。祖国を追われたユダヤ人も極東の避難所・上海に多いときで2万人いた。租界の白人社会の下層にロシア人が位置づけられていた社会にあらたにユダヤ人が加わるという人種差別の縮図でもあった。ユダヤ人は日本人租界地・虹口(ホンキュー)に住み,日本軍の処遇に委ねられた。第二次世界大戦の日本の敗北によって,彼らの多くはアメリカやイスラエルなど新しい自由の地をめざした。
上海の日本人は1915年にイギリスを抑えて在住外国人のトップになり,27年末には外国人総数の半数近くを占めるようになる。日本人は,ひと旗組の土着派,支店勤務の会社派,会社派中間層(サラリーマン)からなり,共同租界地とは蘇州河で隔てられた虹口に多く居住した。著者の見立てでは,日本人は「上海租界の異邦人」であり「共同租界の中での孤立」状態である。
「犬と中国人は入るべからず」とされた中国人はどうだったか(ちなみに,この言葉は公園入口の看板にはなく,中国人の権利問題の象徴として喧伝されたもの)。租界地では買弁(外国人の代わりに,茶や生糸を買い付ける仕事を請け負い,手数料を得ていた商人)が活躍しており,やがて民族資本として中国人の地位と権利の獲得に大きな役割を果たす。同時に,租界地に住む中国人は納税しているにもかかわらず(前述のとおり各種税が徴収される),参政権を持たないことから,のちに国家主権や民族独立の基盤となっていた。
「国中之国」(国の中の国)として100年続いた上海租界は,1945年8月外国人の支配から中国人の手に返された。蒋介石政権(国民党)による支配,国共内戦を経て,1949年5月上海は「解放」される。
上海租界を外国人および中国人の生活と文化から切り取った100年は,各国の対外戦略とそれに翻弄された人々の歴史でもあった。国や民族の見えない服を着て,今日を生きるための営為が国際都市・租界都市・上海を彩っていた。