1677ヴォーン・グリルズ著(国枝成美訳)『上海今昔——写真で比べる中国大都市の近現代①——』

書誌情報:創元社,144頁,本体価格5,500円,2022年9月20日発行

第一次アヘン戦争(1839〜42年)によって香港島はイギリスへ割譲され,上海を含む5港の開港が決まった。1845年にイギリス,1848年にアメリカ,1849年にフランスは上海に租界をつくった。1917年のロシア革命以降は白系ロシア人がフランス租界に大挙して押し寄せリトル・ロシアともいわれるようになった。中国共産党の結党はフランス租界でのことだった(1921年)。蔣介石の国民党は犯罪組織から資金援助を受けていることは知られていたが,共同租界でのあからさまな犯罪をしないことを条件に黙認されていた。
上海の最大の脅威は日本の上海制圧であり,1941年12月8日から1945年8月まで続いた。日本(の軍隊)は,多くの外国人を龍華捕虜収容所に収容し(バラード『太陽の帝国』およびスピルバーグの同名の映画),ユダヤ人をゲットーに押し込めた。
戦後,ヨーロッパ風の道路名は中国語に変えられ,国共内戦後は国民党が上海を追い出され,台湾に逃げる。
上海の,激動の20世紀と現代との2葉の写真からは上海の近代史がぎっしり詰まっている。気象信号台(ギュツラフシグナルタワー),「犬と中国人は立ち入るべからず」のエピソードを生んだパブリックガーデン[公共花園](黄浦公園),上海で唯一開設謄写の建物を使用している在上海ロシア連邦総領事館,いまや聖地のひとつとなっている中国共産党第一回全国代表大会開会場所,水田が点在するだけの農地だった浦東など興味がつきない。
気象信号台(ギュツラフシグナルタワー)に名を残すギュツラフ(Karl Gützlaff, 1803.7.8-1851.8.9)は中国伝教会を設立したドイツ人宣教師で,彼による聖書はプロテスタントによる最初の聖書(ヨハネによる福音書およびヨハネ書簡)として,現存最古の日本語訳聖書として知られている(三浦綾子著『海嶺』角川文庫,上[isbn:9784041004326],中[isbn:9784041004333],下[isbn:9784041004319])。香港には「吉土笠街」(Gutzlaff Street)として名を残している。
また,服部之総著『黒船前後』(大畑書店版,1933年)で紙数を割いてギュツラフを論じている(引用は国立国会図書館NDL DIGITAL COLLECTIONS『黒船前後』[info:ndljp/pid/1209682]より)。「ギュツラフ師ついでに書くと,この坊さんはちょっと興味のもてる人物だ」(104ページ)とはじめ,マルクスの引用をしている。その箇所は,「ギュツラフ氏は20年目に文明人の欧州に帰って,社会主義の話を聞き,抑々それはいかなるものであるかを問い質した。そして,説明を聞き終わったとき,驚いてかう叫んだ。『では,私は,この危険きわまる教義から,いったい何処へ行ったら逃れられるといふのか! この教義こそ,既に以前から支那の衆偶が口にしていたものなのだ』と」(107-108ページ)。
こうしたエピソードをもつ高さ36.8メートル気象信号台は,1956年に操業を停止した。「この時点ですでに外灘では有名なランドマークになっていたため,取り壊しを免れた。マルクスがギュツラフに注目していたことも,取り壊されずに済んだ一因かもしれない」(15ページ)。洪水対策で元の場所から移され(1993年),改修(1999年)を経て,外灘の歴史を展示した博物館とカフェになっている。タワーの背景には浦東の超高層ビルが見える。