453山下亀三郎著『沈みつ浮きつ』地

書誌情報:山下株式会社秘書部,200頁,非売品,1943年4月15日発行

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本年創立90周年を迎える愛媛県立三瓶高校の教頭と事務長が研究室に来られた。山下亀三郎についての講演についての相談だった。全くの素人ながらこれまでの縁から喜んでお引き受けすることにした。11月6日(土)に記念式典を挙行されるとのことだ。
I先生のご配慮で,山下自伝の2冊本後半にあたる地の編のコピーを持参くださった。地の編は山下との交流があった財界・政界人の回想が中心だ。天の編同様徳富蘇峰の評語が各所に挿入されている。「友人秋山真之」(102ページ)との形容はじめ著名人との交流を誇る自慢話といえなくはない。
真之については「秋山真之参謀の最期」でこう書いている(63-64ページ,現代用字に適宜改めている)。

天気晴朗にして波高し,舷々相摩し戦機決すとの戦況報告が,連合艦隊秋山参謀の名文たることは世間に知られた事実だが,その秋山真之大正7年2月4日,我が小田原の対潮閣に滞留中病を得て斃れた。私はその同窓の森山慶三郎,佐藤鐵太郎と云ふ海軍中将等と共に,遺骸を守つて東京に帰つたことを今も忘れて居らぬが,この秋山とは,私の近親古谷久綱を通じて,大尉時代に赤坂の三河屋で呑んだのが始まりで,彼の最後まで,真に兄弟以上の交はりをして居った。
私は俗人だから,役人をして居る友人を呼び捨てにすることなどはなく,君とも言はず,さんと云ふのが私の本領だが,秋山だけは,君を飛び離れて互いに呼び捨てであつた。さうして秋山からは,私は幾度馬鹿よばはりされたかも知れないが,少しも腹が立つたことなどなく,益々親しみを加へた。
秋山が,私に指導忠告を與へてくれたことは数限りもないことえ,実に手紙なども至れり盡せりの噛んで含めるやうな文句のものを,今でも数十通保存して居る。秋山の人物を批評するのは私の柄でないと思ふから一切言はないが,対潮閣の二階の病床で,その最期に至り,大声を発して我国の将来を語り,「我死して我国をどうする」と云つた言が今も響いて居る。
恰度その時に,後に大将で男爵になつて死んだ白川義則氏が,人事局長か何かで少将だつたと思ふが,隣室に控へて聞いて居つた。その白川君も既に亡くなつたから,それを聞いた者はもう私一人だ。さうして,そのあとで又眼を開いて,「山下,何も頼むことはないが,子供のことをね」と言つたから,「そんなことは安心しとれ」と言つたのが最後だつた。今は,その形見の兄の方は山下汽船会社に,弟の方は浦賀船渠会社に働いて居る。(昭和15年7月3日)

これに蘇峰の評語があって「秋山ハ奇才」云々とあるが,残念ながら蘇峰の手書き評語をすべて解読できない。百数十年前のマルクスの「象形文字」は読めて,70年前の日本語を読めないとはなんとも情け無い話だ。