1594刑部芳則著『セーラー服の誕生——女子校制服の近代史——』

書誌情報:法政大学出版局,vii+317+59頁,本体価格3,000円,2021年12月1日発行

著者の「セーラー服を制服にした最初の女学校」(関連エントリー参照)を読んで読んでみた。「セーラー服「邪馬台国論争」」に決着をつける金城学院1921年9月説が注目されがちだが,戦前に高女および女学校であった高等学校が刊行した記念誌や現地調査にもとづく全国935校に及ぶ調査に圧倒される。
高等女学校規定(明治28年1月),高等女学校令明治32年2月),同改正令(明治43年10月)などによって規定された明治時代からの高女や実科高女から高女へ昇格した学校が調査対象となっており,おおむね13歳から16歳・17歳の女子校生となる。
セーラー服が普及したデザイン性や洋式服装改善運動の影響に注目し,制服といえば連想が飛ぶ軍国主義や(当時の)文部省・学校による強制ではなく女子校生が好んで着たという主張が主旋律となっていた。
たまたま手元にあった景浦勉・山内一郎編『ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 松山』(国書刊行会,本体価格8,000円,2021年5月25日,オンデマンド版,[isbn:9784336069665])には開校したばかりの県立城北高等女学校(現松山北高校の前身のひとつで,跡地は松山市立勝山中学校になっている)の写真があった。
説明文には「大正12年,開校当時の県立城北高女生,一年竹組。夏の制服姿である。帽子をかぶり,いかにも大正の女学生らしい。しかし「紡績女工の服の様だ」と評判が悪く,この夏服は長続きしなかった。東雲神社境内での記念撮影。」とある。
本書収録の「全国高等女学校の洋式制服一覧」の「松山城北高女」の欄には,「制定年月:大正12年 セーラー服 白襟,ベルト,蝶ネクタイ,大黒帽」とあり,正確に記述していた。愛媛県の末尾にある「川之右高女」は「川之石高女」の間違いだと思う(50ページ)。
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