1598三輪田眞佐子著『三輪田眞佐子——教へ草/他——』

書誌情報:日本図書センター人間の記録167),244頁,本体価格1,800円,2005年2月25日発行

松山での女子教育の普及はひとりキリスト教に負うものではない。松山で漢学塾を開き,就業年限3年の明倫学舎を開設後(1880(明治13)年),上京して男女共学の翠松学舎創設(1887(明治20)年)を経て,三輪田女学校(直後に三輪田高等女学校,現在の三輪田学園中学校・高等学校)を創設し(1902(明治35)年),儒教を基本に「徳才兼備の女性の育成」を提唱した三輪田眞佐子を忘れることができない。三輪田の夫元綱の兄は三輪田米山である。
本書に収録されている「三輪田学園百年史」に,翠松学舎開塾当時の教員7名(大部分が愛媛県師範学校あるいは明倫学舎での教え子)のひとりとして高須賀伊三郎(のち改名して穣)の名を見つけた。
「当時23歳。明治18年愛媛県師範学校を卒業,小学校の教員となり,明治23年3月辞職,上京している」(三輪田(2005),115ページ)とある。高須賀とはのちにオーストラリア・スワンヒルで米作のため灌漑施設をつくり,オーストラリア米の基礎を築いたことで知られ,「豪州米のパイオニア」や「豪州米の父」とも称されている。愛媛県師範学校卒業後上京し,慶応義塾別科に入学し,慶応義塾大学理財科(現経済学部)を卒業するまでの間,三輪田眞佐子繋がりで翠松学舎の教員だったことが判明した 。
翠松学舎は創設3年が経過した1990(明治23)年1月に閉塾し,女子部だけは残して私塾として運営される。高須賀は三輪田学園草創期の歴史に足跡を残していた。「眞佐子を師と仰ぐ好学の青年たちがここに集い,出発したばかりの学舎には,清新の気が満ちあふれていた」(115ページ)。
「穣の一粒」(オーストラリア産の輸出米の名前。松平みなの小説(愛媛新聞社,2015年12月,[isbn:9784860871239])のタイトルにもなっている)には眞佐子の思いも詰まっているにちがいない。高須賀関連の資料を集めて読んでいる最中だが,眞佐子との接点の記録は本書以外にみつかっていない。